2010年5月11日火曜日

京極夏彦『狂骨の夢』


 表紙を飾る狂骨の模型を見てまず、骨というより木乃伊ではないのだろうかと感じたのだが、それに関する疑問には作中で京極堂が各種アンデッド系妖怪蘊蓄を語る段階で答えてくれる。肉を付けた妖怪というのは現世への未練を残している。それに反して骨の妖怪なんかはどちらかと言えば気の良い気質で、歌い笑い泣きを景気よく見せてくれるわかりやすい存在だと言う。この小説の中の解釈、布いては作者の京極夏彦の解釈になるのだろうが、毎回わかりやすく説明してくれるあたりはこのシリーズの良さであり面白さである。
 しかしその一方で今回は大きな不満があった。妖怪講釈とは別に、日本の宗教的講釈があり、これが今一つわかりにくい。しかも事件の陰謀と解決の一要因が宗教的なところに拠っていることもあり、中途半端な理解の為にいまいち釈然としない。謎だらけの事件を繙いたときの爽快感というものがなかった。ぼくは京極夏彦の小説をはじめて読んだ時に、この人はわかりやすいウンベルト・エーコ(イタリアの小説家で非常にメンドクs……ヘビーで教養を要する宗教小説を書く。『フーコーの振り子』とか)だと思ったのだが、本作の特に十一章中盤(解決シーン)は平易だとは言えない。しかも日本の宗教学に関する文章なので、字と音を(つまり漢字の読み方)を一致させるだけでも重労働だった。例えば読みながらとったノートに玄旨帰命壇というのがあり、読みは「げんしきみょうだん」となる。検索すると一発で出てくる(玄旨帰命壇 - Wikipedia/ちなみに"淫祠邪教扱いされ江戸時代には絶滅した"とwikipediaの解説にあるが、作中では事件を起こした一派の信ずる立川流(立川流 (密教) - Wikipedia)とは違い、不当に指弾されていなかったと言う。立川流はwikipediaの歴史解説にもある通り、権力と結びついたために弾圧されたらしい)けど、普通こんなのわからない。こういった諸々の面倒くささの裏には歴史を辿る面白さというものがあったりするのだけれど、比較的軽やかな気分で読み始めたこともあって、思わぬ壁があったと感じた。『姑獲鳥の夏』、『魍魎の匣』が読者を躓かせない書き方だったので予想外だった。
 今回は日本の宗教史(というか密教史?)を大きな要素とする一方で、もう一方の大きな要素が精神分析学だった。ぼくはフロイトやラマチャンドラやの著書で精神分析学や脳科学の世界をちょっとだけ覗いたことがあるのでこの点に関しては抵抗なく読み進められたが、このへんも若しかするとわかりにくいのかも。ただし脳(個体)による外界の認識の違いというのは『姑獲鳥』から触れられていたことなので、これについてはそこまで身構える必要はないのかもしれない。
 さて物語のネタにばかり拠って書いてしまったが、今回の事件は前述した十一章中盤からの情報圧縮がすごくてそれで霞んでしまった感じ。前作までに比べると興味が出なかった。『姑獲鳥』では関口巽を、『魍魎』では木場修太郎を主役とするなら、今回は伊佐間一成が主役。『魍魎』のエピローグに於いて旅先で匣を目撃したのが彼だっただろうか(もしかすると違ったかも)。今まで端役どころか読者の記憶にも残っていなかった彼だが、なかなか飄々とした風情で面白い人物だった。たっちゃんも木場っちも頭が固くて細かいところまで気にするから、彼はかなり爽やかに見える。相変わらずたっちゃん、木場っちコンビは突っ込み役で「どういうことだ京極堂!?」とか話の腰を折りまくる。それはもう舞台端からディレクターに指示されているのではないかというくらいに突っ込む。京極堂は探偵の基本として彼らのことは無視するというか、今は答えられないという返しに終始するから意味のない突っ込みこのうえない。宗教史が重厚だったので、こういうちょっとした鬱陶しさで物語の進みにストップをかけないで欲しいとか思った。全体的にその物語の分量もあって鈍重な印象だった。

0 コメント:

コメントを投稿