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2009年9月30日水曜日

伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』第三巻、第四巻

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 3 俺の妹がこんなに可愛いわけがない 4

 良い意味でやられた。ラノベとかアニメでよくありがちな(ぼくが勝手にアリガチだと思ってるだけかもしれないが)、女の子に頼られて、羨ましい状況なのに、全然羨ましく思わない……ようでやっぱり羨ましいという絶妙な感覚の取り方は上手い。純粋にニンマリできてしまう作風はライトノベルならではであり、長所だ。もっとも、このフォーマットだからこそ面白いんであって、普通の小説でこの内容をやられても読むかどうかはアヤシイが。ウンベルト・エーコみたいな調子でアキバ系の会話を淡々と書かれても仕方ない。いや、「ゆる~い」を紹介文の頭にした漫画やラノベが流行ってるらしいから、もしかしたらそういうのもウケるのかもしれないけれど、どうにもその方面の作品を楽しいと感じたことがないので、「ハイテンションな」を頭につけたような、こんな作品の方が好きだ。
 三巻はどうしてもメタ的に自作をけなしたり、逆にちょっと持ち上げたりしてるように読んでしまった。でもこれが色々納得せずにはいられない内容だったのだ。主人公の妹が携帯小説を書くのだけれど、作中で擬音語ばかりだとか改行が多すぎだとか言われる。えーと、それなんてラノベ?妹のライバルというか友人も厨二病を発揮した濃い設定ばかりの作品を作って、これでは読者に受けないと言われてしまい、長年やっているその作風で売れないのに、ポッと出の新人(主人公の妹)が人気が出るのは悔しいと語る。それなんてSFとか純文学?
「ウインター・ミュートとかヘプタポッドとか塵理論とかはどうかと思うよ?」
「でも波動関数の収束やγ線バーストは私の全作品を通しての重要なテクニカルタームなんです!」
 みたいな。まあ複雑な気持ちになる。現実では文筆業でなくてもそういうことはままある、なんていうのは今更言わずもがなだろうし、各々がそういったことには折衷案を講じている。その忿懣を叩きつける疾走感は快哉であり、ラノベの持つエネルギーを感じ取ることが出来た。
 物語的には既刊と同じく、「んで、だからどうすんべぇ……」となってしまう刹那的な感じだと思っていたが、四巻でこの妙な溜まった感じは解消される。
 四巻は、このシリーズでぼくが気に入っている点が詰め込んであった。そろそろお気づきの方もいると思うが、ぼくはこのシリーズの筋書きに、現状ではそれほど期待していない。ハイテンションなキャラクターたちのコメディか、据わりの良いちょい切なめエピソードを望んでいるわけだ。となると各巻毎中盤に、機械的に必ず導入されている幼なじみとのやりとりは、作品の瑕疵と認識しうるしかないわけだが、四巻では今までのように幼なじみの家に主人公が訪問して、どーでもいいやりとりをする代わりに、幼なじみが主人公宅に来訪する。そこで妹とのバッティングが起こり、ハイテンションキャラがローテンションキャラにアプローチを掛けてくれるので、作品の特有の荒々しい面白さというものが失われずに済んだ。で、その幼なじみが登場する章さえ終わってしまえば第四巻に不安要素は殆どなくなる。
 一~三巻だと、物語のクライマックスで妹のトラブルを主人公が奔走して解決することになるのだが、今回のミッションは難易度が高くない。このミッション・パート(?)は主人公より、むしろ著者にとって難易度が高いんじゃないかと思うくらい、前巻まではやや無理矢理な解決をしていた。ぼくがこのシリーズを追う優先度を落とした最大の原因となったのも、第二巻の無茶な解決だったのだ。今回は五巻以降で解決をさせるっぽいやり方で、むしろすっきりしてる。半ば投げっぱなしな形ながら、ずいぶん綺麗にまとめられていて、これで終わらせてしまっても、大丈夫といえば大丈夫な状況が一時的に作られていた。頭の中では既に『漆黒のシャルノス』のED曲である「Saudade」が流れていた。"あなた~のいないまち~わたし~はただひとり~"っと。曲が終わってエピローグで季節は変わり……そういえば『シャルノス』にもアフターストーリーがあるよなーとか思いつつ読み進めると続刊への重要な布石が。こんなに繋げ方が上手い作家だったのかと、失礼な感想を思い浮かべつつも次へ期待しないわけにはいかない。もしかしてこれで、似たようなチョイ社会風刺気味なテーマで物語をパッケージングする技法から抜け出したのかもしれない。
 四巻では読者ハガキに何やら仕掛けがあったそうだけれど、案の定古本なのでぼくの知るところではない。

六塚光『ペンギン・サマー』


 釣られてしまった……というのが最初の感想。今年の復刊によって、プレミア価格大暴落SF本トップ3にランクインしたジョン・クロウリーの『エンジン・サマー』を髣髴とさせる名前を冠したこのライトノベル。ナンチャラ・サマーなんて名前はありがちだけど、ここまで時期も語感も合わせてくるのは狙ってるとしか。
 ある種の理不尽小説である気もする。登場人物の行為がはちゃめちゃなのはいいんだけれど、納得できるものと、そうでないはちゃめちゃっぷりというものがある。なんというか、コントっぷりが前面に出すぎていて、これでどう納得すればいいのかわからない理不尽さ。あ、よく見たらあらすじに"ひと夏のトンチキな物語"ってあるので、トンチキな物語を望んでいない自分はお呼びでなかったワケか。まあ、そんなお呼びでない人も取り込んじゃう小説だったら良かったんだけれど。
 それにSF要素がちょっと入ってるだけで、声高にSFというのは厳しい。自分は古本で買ったのでオビは付いてなかったのだけど、本来そこには「○○SF」みたいに伏せ字されていて、それ自体がトリックになっていたらしい。ぶっちゃけるとこれはタイムスリップものである。タイムスリップものとなると、最近は時間が衝突したり封鎖したり逐次的意味を失ったりして大変なんだけれど、そんなことまったくない軽さ。これは読者にもある程度の軽やかさが要求されたってことなのだろうか。
 特徴的なのは視点変更と時間軸変更のトリックが使われていて、これ自体に目新しさはまったく感じないけれど、それぞれの語り口の変わりっぷりは思いきった書き方だと思う。たとえば最初の章は主人公からのごく普通な視点で描かれるが、次の章からは民俗学解説よりの抜抄を模したり、手記調になったり、科白のみで進行する文章だったりする。けれど実はそれが上手くいっていない風に感じた。それぞれがそれなりの分量がある文章なのだけれど、そのひとつひとつに魅力があってこそ、こういった分業は許容されるのであるが、これは単純に読んでいて面倒というか、先がまったく気にならない。ラノベという媒体のおかげで、ダレても内容が把握できずページが進まないということがないのが救いではある、のか?
 絵はちょっとアレな出来で、挿絵があるページになると手で見えなくしてた。イメージを上回らない絵だと、どうしてもこんな扱い。でも絵の分量がライトノベルはそうでない小説より多いんだから、適当にお茶を濁すことは出来ない。まあ恐ろしいことに、これも世間の評判と自分の感覚に隔たりを感じてしまうことも非常に多くあるので商売的にはイケてるのかもしれないけれど、個人的には許容できかねる。

2009年9月29日火曜日

京極夏彦、樋口彰彦『ルー=ガルー 忌避すべき狼』

ルー=ガルー 1―忌避すべき狼 (1) (リュウコミックス) ルー=ガルー 2―忌避すべき狼 (2) (リュウコミックス) ルー=ガルー 忌避すべき狼 (3)(リュウコミックス) (リュウコミックス) (リュウコミックス)

ルー=ガルー 4―忌避すべき狼 (4) (リュウコミックス) (リュウコミックス) ルー=ガルー 5―忌避すべき狼 (リュウコミックス)

 “パイドバイパー”と呼ばれる世界規模の疫病災害から十余年……。世界は汚染された自然食料から切り離され、人工的な合成食品で維持されていた。皮肉にも人類という種は食物連鎖から解脱を手にしていた。それと同時に新たなる道徳観が構築され、少なくなった人類を維持、管理するためにすべての国民は“端末”と呼ばれる機器を身につけることが義務とされていた。ネットワークの終端が人のあるべき位置となったのだ。
 14歳の主人公、牧野葉月が所属する“学校”では新児童保護法による管理が行われる最新の教育施設だが、その周辺で奇妙な殺人事件が起こり始める。次第にその渦中に巻き込まれてゆく葉月だが……。
 という筋書きではじまるこの漫画。原作はあの京極夏彦。SFエッセンスは含まれていて、上手く設定に使われているんだけれど、事件の筋は結局いつもの京極作品。ただ、そこに女の子たちの、むしろ少年的な青春物語が入り込んでくるあたり、一男子としては純粋に魅力を感じずにはいられないだろう。高度に管理された社会になっているから、一四歳と言っても現実のその年齢の子とはまた違った純粋さを持っていて、でも本能や衝動を知識として持ってるという不思議な子たちだから、すごいパワフルさがある。まあこのへんの特徴は天才少女の美緒に顕著に表面化しているけれど、他の子たちも実はみんなスゴイ。
 そういった基本的な面白さがある上に、物語が既に小説として完成したものだから不安なく読めるし、バランスも取れてる。樋口彰彦も上手くて、高水準を保った作品だった。この樋口彰彦とい漫画家、二〇〇三年からいくつかの短編を出し、今作が本格的な連載作品としてははじめてのものらしいが、妙にこなれてるというか、おそろしいくらいベテラン然とした作風の持ち主に感じた。なんというか、企画が立ってこの作家を採用し、連載させた時点で、もう勝ちが決まっていたようなものだと思う。良い意味で出来レースで、乗せられた読者の負け――ならぬ幸運――であった。
 読書メーターで上手いコト書いてるお方がいたので引用させてもらって締め。
「どうしてそんなにお耳が大きいの?」
「お前の助けてって声を聞き逃さないためだよ」
「どうしてそんなにお目々が大きいの?」
「何処にいても仲間を見つけられるためだよ」
「どうしてそんなにお口が大きいの?」
「友達を傷つけるやつを倒すためだよ」

2009年9月28日月曜日

アルフレッド・ベスター『分解された男』(沼沢洽治訳)


 このアルフレッド・ベスターという作家はこの本よりも有名な作品で『虎よ、虎よ!』というのがある。そちらをおいて、この『分解された男』を先に読んだのは、デビュー作から~とかいう殊勝な心掛けからではなくって、単純に古本で安く買えたからである。しかし、予期せずそれは正解だった……かもしれない。というのもこの本はすごく面白かったのだけれど、聞くところによると『虎よ、虎よ!』と読み比べると、そちらの方が面白いらしく、しかも後に述べるSF群の中にあるからこその弱みもなさそうだからだ。やはりSFは進化が早いジャンル。新しいものを読んだあとに古いものを読むと、どうにも引っかかってしまうところがなきにしもあらず、ということだし。
 この作品ではミステリじゃないけれどミステリ仕立ての解説法が使われている。今で言う京極風みたいなの、と言ってしまっていいのかはわからないけれど、気持ちいいスピードでサスペンスを展開して、わからない部分は最後に片付けるという感じ。そのおかげで、面白さの上に、わかりやすさが乗っかって、SF初心者におすすめできそう。古めのSFの弱点として、ありえない方向で進化しちゃってるテクノロジーのガジェットとかが出てくるのだが、まあこれは古色蒼然としていて、落語調の科白と相まって微笑ましくも思える。
 大筋はピカレスク・SF(というのかな?)で、主人公対警部の攻防が画かれる。中盤のどちらも譲らない激しい攻防とか、未来のニューヨークの微妙に洗練されてない空気とかがいい。後者については、なんとなくギブスンが書いてそうな猥雑な町並みを思わせる(と言ってもギブスンは『ニューロマンサー』と『ディファレンス・エンジン』しか読んだことないんだけど)。ハードボイルドなトコロも個人的にはギブスンと重なる部分があると思う。下の本にあるギブスンのエッセイに「アルフレッド・ベスター、SF、そしてぼく」というものがあるらしいが、やはりあのパンクな空気感に連なるところがあるのかもしれない。ただギブスンがハードボイルドかつクールを最後までキめる作家だとすると、ベスターの『分解された男』は最後で強面だけど実はいい人みたいな感じがあり、その辺がより多くの人に受けいれられそうだと思った。


 かなり面白く、優等生的な作品だけれど、優等生だからこそだろうか、少しだけ残念なところもある。あくまで基本的な構成はサスペンスがメインであって、SF的叙述はやや隅に置かれてしまっていると思われるところだ。だから初心者にも面白く読めるのだが、どうにも「SF界でもっとも権威のある賞=ネビュラ賞の記念すべき第一作目!」と誇られても微妙に違うような気もする(でも賞の第一作目のってことは、その時には賞にそこまでの権威はなかったんじゃないかとも思うけど)。今時エスパーというネタを使われても、新鮮味はない。物語的な面白さは充分なんだけれど、SFの持つ独特のデザイン的な面白さが、昨今の作品群と比べるとどうしても見劣りしてしまう。まあ物語的な弱さがSFの基本的弱点だというようなことを、何かの作品の解説で読んだ記憶があるし、そんなデザイン面ばかり拘ってるから、SFを読まない人にはまったく意味不明というか、先鋭的すぎる(なんだよ、ロブスターのアップロードが特異点を迎える前に避難を欲してるって……)作品群ばかりになってしまっても困る気がするので、それはそれでいいし、尖った作品もまた、それはそれでいいのだが。つまり作家の美意識の持ち方が、どこに向かっているかを第三者たる自分は如何に感じ取ったかという問題であり、そういう個人的見解からすると、ハードSFを欲する場合にはやや物足りない作品でもあると感じるのだ。
 ところでフロイトっぽい精神分析学の影響が所々見られるのは、書かれた時代の象徴だろうか。この本より少し前のものになると、ダーウィニズムの流行が感じ取れたりするけど、昔の本はそういう当時の思潮が読み取れるから面白かったりする。しかもこの本では、随分核心的な部分でこのメスメルな学問のネタが使われていることもあって、そこから作家及び、この時代の読書家たちの熱の入りようがうかがえないだろうか。こんなところでも有名な学者の影響を感じてしまうのは、果たして自分だけの錯覚か。そしてこれが今になると、ポアンカレ予想やらM理論やらの最新かつ、そろそろ素人が追いつくのが大変な物理理論を活用したSFになってるのも、また時代ということなのだろうか、などと考える。そうして振り返ってみると、当時の視点でこの作品は、新しい学問を吸収し、なおかつ物語も堅牢性があるということで、業界の政治的理由も含めて、新設された賞を与えられるに相応しいものだったのだと思う。

2009年9月24日木曜日

エーベルス他『怪奇小説傑作集5』(植田俊郎、原卓弥訳)


 独露の作家に絞った短編集。ドイツ編にはクライストの『ロカルノの女乞食』、ケルナーの『たてごと』、エーベルスの『蜘蛛』、ホフマンの『イグナーツ・デンナー』があり、ロシア編にはアルツイバーシェフの『深夜の幻影』、レミゾフの『犠牲』、ゴーゴリの『妖女(ヴィイ)』、チェーホフの『黒衣の僧』、トルストイの『カリオストロ』が収録。ロシア編後半のメンバーが錚々たる顔ぶれと思いきや、最後のトルストイはかのレフ・ニコラエヴィチ・トルストイではなく、アレクセイという名の作家らしい。ロシア文学というと、なんとなく怪奇小説と結びつかず、社会派小説っぽい気がするし、そこまでではなくとも娯楽小説が少ない気がする。それでなのかは知らないが、以前読んだことのある『怪奇小説傑作集1』(英米編)に比べて、非力というか大人しい。やはり英米の方が好き勝手やれるのだろうか。
 英米編ではわりかし近代的な姿で怪物が出てくるのに、独露編は精霊や幽霊や魔法使いといった昔ながらの姿で恐怖の対象が表れる。まるでラフカディオ・ハーンや柳田國男の本にあるような民話から少しだけ小説風にして書き出したよう。もちろん例外はあり、英米でもこういった系統のものは散見される。例えばジェイコブズの『猿の手』などはそうだし、この本に収録されているものでもエーヴェルスの『蜘蛛』はかなり近代的ではある。収録されているものの中では、この『蜘蛛』と『イグナーツ・デンナー』が好きだった。後者はラストが少しすっきりすぎかとも思うけれど、結構壮大で物語のメリハリが爽快だ。

2009年9月19日土曜日

原作既読分と未読分で区切られたアニメ版『うみねこ』

 アニメ『うみねこのなく頃に』が、今週からep3の部分を放送しはじめて、ようやく楽しめるようになった。
 自分はEpisode3以降は原作をプレイしていない。Episode2がまったく面白くなかったし、他にも『ひぐらし』以降の商法が気に入らなかったというのもあった(定期リリースはこの場合問題にならなかった。それよりも同人でやりながらコンシューマーでも販売し、コミケでサークル参加しながら既に作品がアニメ化して全国で放送というのが、既に同人の域を逸脱していると思う。商業でやるなら同人誌即売会から出ていけばいい)。冷静に考えたら、竜騎士07の作品は『ひぐらし』原作全編と『うみねこ』Episode1~2しかプレイしていないが、『ひぐらし』の解決編二作目以降、大して面白く思えるものがない。ストーリテリングに長けていないというか、ネタで勝負するタイプなのに、落としどころを自ら変なところに持っていってしまうという……
 にしても、原作をEpisode3以降やっていないだけで、こんなに楽しめるだなんて。今だってそこまで褒められる内容じゃないけれど、pisode2分以前と、Episode3分以降でこんなにも感覚が違うものだとは、実際に放送されるまで予想もしていなかったので、その落差もあって純粋な内容以上のものを感じている。原作を読むという行為が予想以上に強いバイアスを掛けるということを実感した。
 今までは原作既読分エピソードの消化として、作画的楽しみがない上に、内容的楽しみもないアニメを観るのは辛かった。『うみねこ』はミステリ的手法での解決を押し迫っているくせにミステリしてないあたりは個人的に気に入っていない。不真面目な態度ではあるけど、もうそんなことは考えずにごく普通に、フトモモねーちゃんズとなんちゃってサスペンスを楽しめば良いんだと思った。そもそもぼくはアニメのストーリー自体は映画や小説と比べて幼稚なものが多いと思っているので、少し緩めでも大して問題ではない。緩いくせにミステリに迎合してもらおうとする姿勢は嫌だけど。あとOPから新キャラが数多く登場しているのはいい。これからの展開を期待させてくれる。
 作中のメタ描写は各Episode終了後のお茶会は滑稽だけど、劇の幕間に入っているものはある意味で気に入ってる。
「おれ達はみんな仲良く、いつまでも幸せだ」
「そうはさせませーん!『信じ合うって誓おう』だ?ぬるいんだよぉ」
「ちくしょう、お前は出てくるなよ」
これはいいコント!バトラとベアトリーチェの問答になるといつも笑えてしまう。この二人仲良すぎ。
 一方で、ついこの間までやっていた『青い花』というアニメというアニメがある。これも原作未読だが、むしろまったく楽しめず、実は最後まで観ていなかったのだが、どちらかというと原作既読者に人気があったらしい。当たり前だがいつも原作未読が良いというわけではない。

2009年9月16日水曜日

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)


 優れた科学者の著書を読むと度々思うことがある。彼らはまさにミステリ小説における探偵のようだ。シャーロック・ホームズの"不可能なものを除外していって残ったものが、たとえどんなに信じられなくても、それが真相である"とか江戸川コナンの"真実は、いつもひとつ!"とかを体現し、現状からは導き出されそうにない真実を探り当てる。ヴェーバーの本を読むのは二度目だけれど、今までの人生で経済学者の本というのは、正直なところ、あまり読んだことはなかった。しかし――なるほど、優れた経済学者も優れた科学者と同様に、論理的に驚くべき結論を導き出すということを実感させられた。
 本論考内容を簡単に言ってしまえば、合目的的な近代資本主義の形成の一部は、ピューリタン的な厳しい倫理観念に担われた、ということだった。プロテスタントの内部でも特に禁欲精神に富み、天職精神を持つことから結果として資本主義の精神に変容したという。このような歴史的考察内容になると経済だけでなく神学的内容にどうしても触れることになる。個人的には当時の欧州で多くの人々が、それほどまでに宗教の影響を強く受けていたというのは、ちょっと想像しにくい。しかしもちろん、おそらくこの点については、その影響は事実なのでありむしろ興味深くもあったし、本書では各教派について特定の視覚からではあるが、それでも説明されている部分があるのでなかなか勉強になった。
 Amazonのレビューで既に本論考は否定されていると書かれていたので、そちらも気になるところ。反証されたといっても、具体的にどこまでが反証されたのだろうか。ピューリタン的な思想ではなく、ルッター派的な思想から資本主義の精神は形成されたとしても反証されたことにもなるし、あるいは欧州の資本主義の精神の形成に宗教からの影響は補助的に働かなかったとしても反証にはなりうる。『日常性の構造』というみすず書房が出しているシリーズがこの領域をカヴァーする本としては統括的で良いらしいが、はたしてどうなのか。そのうち機会があれば手に取りたいと思う。

2009年9月9日水曜日

小さい水筒が便利


 最近このサハラマグを使って、ちょっとした外出時の出費を抑えてる。もう値段の半分は節約できたくらい。300ミリリットルというと、がっつり食事をするならもう少し飲みたいかもしれないけれど、大きさと重さのバランスを考えるとこのくらいがいい。普段使っているメッセンジャーバッグのポケットのひとつにちょうど収まるのも便利。店頭でいろいろ見たところ、柄を自分で変えられるタンブラーや、飲み口に工夫を凝らしてあるものもあって、それはそれでいいのかもしれないけれど、その分だけ表面積が大きくなっていて実用的ではないと思った。色味はピンクとあるけれど、どちらかというとレッドトーンとかパープルトーンみたいな感じ(ちなみにこのふたつは写真だと色味に差があるけれど、実際はそこまで違わない。どちらかと言うとパープルトーンの方が色の再現率が高い)。悪くない色だし、他のものとすぐ見分けがつく色なのでこれにした。
 ところで総合的には出費を抑えられるとは思うのだが、これを使って飲み物を買わなくなった代わりに、以前までは全然買わなかったデザートを少しだけ買うようになってしまった。こんなところにトラップが(サハラマグのせいではない)。森永の牛乳プリン美味しいです| ^o^ |

『漆黒のシャルノス -What a beautiful tomorrow-』


 ついにゲーム本編も、ウェブノヴェル『ナイハーゴの灰葬』も、会報『月刊うそ』も、同人誌『おさるのす』と『しつこくのおさるのす』も読み終わってしまった。会報でのアフターストーリィはまだまだ続きそうだけれど、一抹の寂しさを感じる。
 去年の八月頃に本作、『漆黒のシャルノス -What a beautiful tomorrow-』の情報が公開されてから、スチームパンクとか、サイバーパンクとか、怪奇小説とか、ミステリーとか、幻想小説とかを、それなりに読み、予備知識を蓄えてた。といっても元ネタにされている範囲が厖大なためにまだその一角しか崩せていない。未プレイだったWhat a beautifulシリーズの第一作の『蒼天のセレナリア -What a beautiful world-』をプレイし終わって、第四作となる『白光のヴァルーシア -What a beautiful hope-』の情報も公開されて、このまま準備していたらいつまでもプレイすることが出来ないと考え、思いきって開封した。結果的に、前二作の『蒼天のセレナリア』と『赫炎のインガノック -What a beautiful people-』をプレイしたのと、ネタ元の小説をある程度読んでいたことは良かったと思う。
 自分は浅学なので、登場人物が語る比喩や、サブタイトルの捩りなんかはある程度小説を読んでなければわからなかったに違いない。いくらかの説明の放棄と、ほんの少しの衒学趣味が、なんとなくあの時代の小説や講義録のよう。例えばホームズもいくつかの短編で神話から事件を皮肉って語っていたりしたし。作中で見られる反復性も『ディファレンス・エンジン』の「ナラトロン」による反復プロセスを想起させた。それ自体に大した意味はなかったけれど、そういうガジェット的な楽しさも、テクスト主体のエンターテイメントを楽しむ上では僅かながら意味のあることだと思う。
 『蒼天のセレナリア』からは設定が脚本に随分絡まってる。『赫炎のインガノック』はアーコロジー内の閉鎖環境での物語ということもあるし、記憶も曖昧なので、いまひとつ本作との絡みは少なかったような気がするけれど、ところどころインガノック関連の用語は出てくるし、あの作品のウェブノヴェルは直接的に本作に繋がってる。
 『シャーロック・ホームズ・イレギュラーズ』に載ってる桜井光のインタビューによると、女学生ロマンにピカレスクロマンを混ぜた少女小説的イメージらしい。そこにトラディッショナルなスチームパンクSF(伊藤計劃によるとスチームパンクをぼくらは勘違いしているらしいけれど、とりあえずそう言っておこう)とコズミックホラーをさらに混ぜた一種の歴史改変もののエロゲーが本作。二〇世紀初頭の倫敦が舞台で、その中にある碩学院の女学生が主人公とか、良い意味で反則すぎる。様々な作品のオマージュであり、見方によっては節操がないと思われそうな組み合わせだが、いくつかの作品に別けて独自の世界が語られ(という部分もギブスンを想起させる)、既にひとつの作品世界を構築することに成功している。だからある意味ではファンタジィであり、史実との繋がりの希薄さが歴史改変(alternate history)ものとは言えなくなっているのかもしれない。ただし史実との差異を語られる部分が歴史改変ものの楽しみのひとつであるのなら、これもまたそのひとつであると言えるのだと思う。はい、ここで名台詞!"なるほど――そういうこともあるでしょうが、そうでないこともあるでしょう"。『レピドプテラ』の唯古みたいに言うなら、"そういうのとは ちょっとちがうんだと思う"。
 巧緻に絡み合うシリーズ作品の中のひとつというのもあって広がりがあるのもいいが、やはり、何よりも、登場人物の造形と舞台設定のシナジーがとんでもなく痛快。正直、シナリオゲーの皮を被った画期的なキャラゲー的側面に随分惹かれた。カフェでビアズリーのことを喋って恥ずかしくなってたり(今で言う腐女子的雰囲気が若干感じられる)、ティファニーに興奮したり――読んでいて嬉し恥ずかし悶死するしかない。時期もあって、一瞬『ラブプラス』を一足早くプレイしてるのかと幻視してしまいそうになった。『赫炎のインガノック』の猥雑な生活感も良かったけれど、こんなセレブオジョーサマな生活感もなかなか……ゴクリ(AA略)。後半は伊藤計劃の『ハーモニー』とかアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』な壮大な感じではあったけれど、主人公のメアリが賢くて優しくて強いので非常に爽やかな読後感。このへんはエロゲーならではだけれど、肩すかしにならずにここまで綺麗な終わり方を見せてくれたゲームはなかなか珍しいと思う。
 画も音楽も声も文句なしだが、特に画は特徴もあって最早他の選択肢が考えられない。そもそもAKIRAの画風は元来から好きで、情報が発表されたときに、これ以上合うものはないと思ったくらい。『赫炎のインガノック』からいきなり塗りが良くなったけれど、今回もちょいAndrew Jonesなグラフィックが作風によく似合ってる。そして描かれたメアリは可愛すぎて非常に困る。ゲーム本編のメアリもいいし、『しつこくのおさるのす』で「あたしもあんな碩学様になりたいなあ」と将来の夢を語る子供時代のメアリを見ると、思わず笑みを洩らしてしまう。子供のくせに妙に艶のある表情。存在自体が18禁と言われるだけはある。ウェブノヴェルのクライマックスで手を伸ばされたMが羨ましすぎてどうしようかと、レストレイド警部の気持ちに。果たして今後、彼女以上の主人公且つヒロインに出会えるのか。メアリの物語が語り終わられてしまうことに恐怖を感じる。故に明日を否定したくなったとしても仕方ないことかと。
 ゲームパートは難易度が高いとあんまり評判がよろしくないけれど、これもなかなか良くできていた。『蒼天のセレナリア』のゲームパートは頭を使わない簡単さのせいで単純作業と成りはてていたのでつまらなかった。『赫炎のインガノック』のゲームパートはつまらなくなかったけれど、ゲーム性があんまりなかった上に、殆ど勘を頼りにしなければならなかった。今回はちょっとだけ頭を使わなければならないし、適度な緊張感を要求されるので随分楽しめた。おまけCGを見なければ簡単なんだけれど、CG入手を目指すとなると、ラストステージはそれなりの難易度で、運が悪いとコンティニューを強いられてしまうあたりがいい。『サガ フロンティア2』の難所、サウスマウンドトップの戦いを思い出す。ゲームパート中で回収する四つの声(手がかりテクスト)はシナリオを理解する上でかなり重要だけれど、『赫炎のインガノック』と違って必ず全て読めるし、前後半で別れたゲームの特に後半は、テクストを読んで疲れた頭の小休止になったので良かったのでは。信者脳のご都合変換と言われかねないけれど、普段ゲームをあんまりしない自分としては充分だった。
 やはり少し時間を掛けて本編をプレイしたので自分の中で脚本の流れを消化できたのも良かったし、総合的には非常に時間をかけてゲームまで辿り着いたのが功を奏した。多分メアリが『モンテ・クリスト伯』を読んだときに言うように何度読んでも新しい事がわかるんだと思う。また時間が経って、知識を得た後に、このゲームをプレイしたい。

『蒼天のセレナリア -What a beautiful world-』


 後続のシリーズの設定を理解するためにプレイしたけれど、この作品単体ではそんなに好きじゃない。悪い意味でエロゲーのディシプリンに収まっていたような。『赫炎のインガノック』や『漆黒のシャルノス』の落ち着いた雰囲気が好きなので、登場人物の造形やエロシーンがやや苦痛。
 塗りはもっとスッキリさせるか、あるいはもっと描き込んでもいいと思うけれど、どうにも中途半端で、拙いアニメ塗りといった印象。原画の護国卿は上手くて、汎用的に使えそうな画風で素直に良い。しのづかあつとが意外と描けてない。氏の描く女の子の画は好きだからあんまり言いたくはないけれど、この作品で担当したメカとクリーチャーは描き慣れてない感が強い。メカは仕方ないとしてもクリーチャーが解剖学をあまり意識してない風なのが驚いた。
 ゲームパートも単純作業のくせに、おまけCGを回収しようとすると時間がかかるのが面倒。
 良い評価をすることはできないけれど、主要登場人物のカルベルティも『白光のヴァルーシア』で登場するし、ファンディスクも後の作品で重要になる《結社》絡みなので、やっておいて損はなかった。

2009年9月8日火曜日

グーテンベルク42行聖書展


 日曜日に丸善日本橋店のギャラリーのグーテンベルク42行聖書展に行ってきた。写真撮影は不可で、実物はガラスケースの中にあったからよくわからなかったのだけれど、レプリカ(と言っても章のはじめについてるボタンとかは一切ないもので、実物とは差があるものではあるが)が置いてあって、それは触れた。巻頭・巻末のデザインとプチ挿絵が目立って豪奢なものだった。欲を言えば、紙でなく羊皮紙のものが見てみたかったとは思う。
 この展示会だけでは、わざわざ自宅から15キロ程離れた日本橋まで行く気にはなれなかったのが正直なところだが、自転車に乗って写真を撮りながら、あんまり出向かないところの地理を見ておこうという気分があった。片道で四〇分程度か。大型書店は新宿のジュンク堂や紀伊国屋が近場であるし、品揃えも満足しているが、たまには遠くに行ってみるのもいい。結局買うのは帰り道で寄ったブックオフの105円コーナーで見つけた『マルドゥック・ヴェロシティ 3』と光文社新訳版の『カラマーゾフの兄弟 2』だったが。でもこれで『カラマーゾフの兄弟』が全巻揃ったぞ!