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2009年8月31日月曜日

『Omegaの視界 アキかけたシキのアイ:残』


 自分としては珍しく、発売日にすぐに買って、その日のうちに集中して終わらせたくらいにめちゃくちゃ楽しかった。まあ同人ゲーだから値下がりがないというのもあるんだけれど、それがなくても即ゲットしていたことだと思う。
 謎めいた脚本と魅力的なキャラクターと、それを損なわないテクストがとても心地よい。明確に表現されていない意味や語をプレイヤーが作品を読み進めつつ埋めるのも、登場人物の語るユーモラスな蘊蓄を眺めるのも、前作から一年ぶりのごちそうで満足したと堂々と言える。それに加えて今回の『残』は物語的にも盛り上がりどころがいくつかある。まず初の戦闘シーンが存在している。前作の『アキかけたシキのアイ』(ちなみに『残』には前作までのすべてのエピソードが同梱されている)でも「スタンド・プレイ」というエピソードで戦闘シーンらしきものがあったけれど、今回はもっと明白なものが観られる。観られる、と書いてしまうと語弊があるが、読むとも観るとも言えない印象を持たせる魅力的なシーンだった。

 そして冬夏と姫様は以前から非常に危うい関係にあったけれど、一気にその状態が決壊するし、宮さんも真言にようやく明確な態度を取る。真言のあずかり知らぬところでは貴奴(?)も大きく動くし、物語の序盤で中央(田舎に対する地方を作中で言う語)に残して来た友人の大神とその恋人のかれおにも変化が。こうしてみると既知の事情を解体するようなエピソードで、丁寧かつゆっくりとした流れの『シキのはじまり』、『未開封のハコニハ』、『アキかけたシキのアイ』に対して、『アキかけたシキのアイ:残』は未知の状態へと事態が進展する今回はまさに激動の断章と呼べる。
 登場人物が誰も彼も、何か企みがあったりしてわかりやすい人格ではないんだけれど、その方が面白みがあると思っているし、事実それで厚みのある内容になっている。小悪党みたいなのが一人もいなくて、みんながラスボス的存在になりえるし、逆に仲間になりえる。プロレプシスとして真言自身も『アキかけたシキのアイ』で「ula、七の刃のおもいで」というエピソードを語るわけだが、それでも彼自身、どうするのかわからないくらいに板挟みの状態にある。よくある人物相関図みたいなのには簡単に収まらない複雑系からくる予測不可能性だ。『シキのはじまり』のムービーで出てくるフラクタル図形(マンデルブロ集合による)が出てくるけれど、ようやくあの図形を見せた意味がなんとなくわかるようになってきたのかもしれない。バタフライ・エフェクトからの引用も前作までのエピソードに含まれていたような気がするし、プレイヤーに意識させようとしているのかも。ただ割とプレイヤーの基礎知識に対する要求レベルが高くないのも良くって、そこらへんは意外とデリカシーがある。もちろん引用元の文献を知っていたりすれば、それはそれでいいけれど、例えば特に目立つ引用元である京極夏彦作品を知らなくても悟性に富む饒舌な人たち――チノとか道具とかカルロサ――がいてくれるおかげで理解できる……少なくとも推知することはできる。

 引用が単なる部分的なイミテーションに留まらず、話に複雑に根付いてくるあたりも好感が持てる。語に意味を持たせないと複雑系が見せかけのものだけになってしまうけれど、そこにもきちんと伏線を張ってある。登場人物の名前などに意味を持たせるのは当たり前だけれど、コノテーション(内示的意味)が他の作品のそれよりも強く物語に影響し、そういった部分も作品に深みを与える重要な要因になっているのだと思う。
 そしてこういう昔ながらのノヴェルタイプのゲームをたまにやると、この単純さがむしろ最近発売されている画や音に表面的な工夫を凝らしたものより優れていると度々感じる。声を入れることによって印象は強くなるが、失敗して興ざめしてしてしまった事例は溢れているし、動かない立ち絵を無理に動かすセンスのなさに呆れることもしばしば(……これ、以前にもブログで書いたような気がしてきた!)。テクストが主体になることによって画に意味を与え、音がそれに華を添える形式がノヴェルゲームのライトモティーフであるのならばリーダビリティの低下を招く余計な要素は基本的に不要だ。そこに追加要素を入れるのなら、そうすることで物語により意識を近づけるようなものでないと、プレイヤーとしては鬱陶しく感じる。その点では、『Omegaの視界』はとても効果的に音楽や画を入れていて素晴らしい。これこそ外面を撫でるだけでない、本来的な演出と呼べるものだ。こういうヴィジュアルノヴェルが持つ根本的な魅力というのを存分に感じ取れるような、今では稀有なものとなってしまった魅力もある。
 ところで今回、劇中で冬夏と宮さんが歌っていた曲の元は実は以前発売されたヴォーカル集『月供調 [gIg+]』の中にあった「月は無慈悲な白き玉座」と「紅い月、夜を想う」と「D_Side of the Moon ~ Omegaの瞳に祝福あれ」だけれど、これらは音楽鑑賞モードで聴けないようだ。当然ながら劇中で聴けるものもインストゥルメンタルなので歌詞は『月供調 [gIg+]』の冊子でしか知る手段がないのはちょっとモッタイナイ。まだとらのあなの通販では在庫が少ないけれど残っているみたいなので買ってもいいかもしれない。『月供調 [gIg+]』には「夜光燈」のフルヴァージョンも収録されている。ただ個人的にはヴォーカル集第一弾の『GNOSISONG』が「ythm」のフル収録ということでこちらを推すが、在庫がどこにもなさそうなのが残念だ。

2009年8月30日日曜日

選挙に行くには動機がいる

 小市民は選挙が好き - よそ行きの妄想というエントリーがはてな界隈で(いきなり脱線で申し訳ないんだけど、「はてな村」って呼称を最近聞かなくなったなあ)そこそこ話題を呼んでいる。自分は今回、投票してきたが、この行かないという選択肢はアリだし、書かれていることにはそれなりに同意する。公明党に入れてと囀る学会の人間はやはりどうかと思うが。国民の義務だから行くべきという意見も、この時期になると政治的なことを普段は書かないような人がやっているブログで散見され、なんだかなあとも。
 国民の義務だから、つまり政治を良くするために行けと言うだけでは、棄権している人間は投票に向かうことはないだろう。なぜ行かないかというと、行きたくないだとか、あるいは上のエントリーにあるような意志があるわけでもなく、誰に、あるいはどの政党に票を投じればいいのかわからないからだ。だから行くべきだと論ずるならば、どの政党がこういう方向性を持っているから云々書いて説明し、そしてこの政党に入れるといい程度は書いた上で選挙に行けと言って欲しい。
 当然ここで秘密選挙というのが壁になってくると思う。これが民間信仰チックな強迫観念になっていて、「秘密にしてもいい」が「秘密にするべきである」になっているのが問題で、別に支持者や支持政党が違えていても人間関係は変わらないのに気にする人が多すぎる。ちょっと不思議に感じるくらいだ。ぼくが母から投票者を教えてもらえないくらいに、この強迫観念は強い。もし実際的な理由があって明言できないのならば仕方ないが、特にそうでもないのに支持者の名前を挙げられないような思考能力のない人間が実際的な政治に関与しようと、それか政治的なことを語ろうとするなんておかしいことだ。まあ、ぼくが支持した保坂展人は落選っぽいからぼく自身、結果的に政治に関与しなかったんだけど。ほんと、無碍にずぶ濡れになっただけだった。"負けた候補への票だって、当選候補に対する示威行動のひとつとして効果を発揮する"(第45回衆議院議員選挙投票日 - Tonapaは席を外しております!)らしいけど、どうなのかなあ。(追記:ネトウヨ大憤死の巻にあるみたいなマジキチな人間は右派でも左派でもいるわけだから、友達は選んでおくべきだと思うけど)
 ぼくだって選挙日が近づいて情報収集しないと誰がどんな人物かわからないくらいには政治的な情報弱者なので、行かない人間の気持ちはわかってるつもり。同年代の友人・知人と話しても、どこに入れればいいかわからないよねって発言はしょっちゅう出るし。しかも今回の投票日みたいに土砂降りの中で投票に行けなんて言われても、行こうと最初から思っていない人間は絶対に行かないだろう。行かせたいからにはそれなりにモチベーションを持たせなければ、言いたいだけだろと嗤われて終わってしまうと感じるのだが。

ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』(井上勇訳)


 ガチガチのミステリーとしては堅実で好印象だけど、それ以外は別に……うーん、自分はもしかして純粋な推理小説にそこまでおもしろみを感じない性質なのかもしれない。アガサ・クリスティとかコナン・ドイルとかはおんもろーって思うのだけれど、それはどうにもトリック以外の部分で感じているのではないかしらん、などと仮定してみた。たとえばあの時代のイギリス、延いては欧州全体の雰囲気が感じられるところなどは、それだけでも魅力的ではあると思うのだが。当時の状況もそうだし、登場人物から察せられる思想や個人的な哲学(つまりアカデミックな、あるいはトラディッショナルな意味ではなく、小説で「なるほど、哲学者でいらっしゃる」みたいな意味での哲学)などもなかなか興味深い。
 ヴァン・ダインは米国人であって、その為にこの小説の舞台もニューヨークなのだが、どうにも当時のニューヨークがどんな風であるのかいまいち想像できない。まあ一応、探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する長編小説の第三巻であるので前巻にそういったことは書かれているのかもしれないが。それでトリック以外の部分を楽しむとなると結果として登場人物の話す言葉などに興味を惹かれざるおえないのだが、どうにもヴァンスは詩的に語りつつも唯物論的語りがお得意らしく、過去の事例を述べることに興味がおありのご様子。美しいものだと感じる上部構造ならばそれだけでもテクストは輝くのだが、そういうものでもなし。京極的に上部構造の形式化を図ってもらえたほうが、自分は楽しめるようだ。
 というか最後に一言突っ込ませて!この表紙はないよなあ!

アーサー・C・クラーク『宇宙のランデヴー』(南山宏訳)


 南山宏が解説で云うとおり、今にあってもセンス・オブ・ワンダーを感じさせる世界観の表現。太陽系に突如飛来した宇宙船ラーマは巨大で、その内部構造は目的が理解できないもので満たされていても、被造物はどことなく人間が用いる構造であり、視覚的に想像することができる。そこがいい案配になっていて、要求レベルが高い想像しにくさでもなく、かといってありがちな安っぽいものでもない。未知との遭遇、ニアイコール、ファースト・コンタクトな内容だけれど、コンタクトはとれてもコミュニケーションがたいしてとれてなかったあたり、探検記的な物語だと感じた。

菜住小羽、谷川流、武田日向『蜻蛉迷宮 1』


 田舎ミステリーエロゲ風味サスペンス漫画。不気味な事件+美少女な雰囲気は好き。確実に型月厨が騒ぎ出しそうな設定。
 登場人物の作画や筆のタッチは鳴子ハナハルチック――というかパク(以下略……鳴子ハナハルのエッセンスを巧みに取り入れているならハナハル系とかも言えるんだろうけど、まだその段階ではないと思う。というか人体もうちょっと描けた方がいいと思う。曜子の裸とか、大きいコマが勿体ない。漫画技法もやや硬め、な気がする。漫画技法とかはぶっちゃけよくわからないし。鳴子ハナハルのダイナミックかつ繊細なコマ割りはそんなに取り入れられてないと思った。で、キャラデの武田日向と原作の谷川流というビッグネームにどうしてそういう新人がついてるのか。気にならない方がおかしい。嫌な言い方になってしまうかもしれないが、言わずにはいられない。
 武田日向の絵はとらのあなの特典もあって思った以上に載っていた。ファンとしては嬉しい。

2009年8月20日木曜日

パウロ・コエーリョ『ベロニカは死ぬことにした』(江口研一訳)


 アレな内容のワリには綺麗なビジョンで好きだった。風越のキャプテンやまりんに読ませたい。翻訳は不評だけれど別にひどいと思わないし、内容も特に難しくもないと思う。ただ訳者後書きを読んで『アルケミスト』を読む気を少し削がれた。これは訳者のせいだとは言い切れないが。
 愛や安寧の中で登場人物のような狂人が生まれるという。作中の言葉を借りれば"人は狂うという贅沢を、そうできる立場にいるときだけ許す"というが、勝手に言い換えることにする。人は、というか登場人物は、やはり逆境の葛藤の中で狂う。狂うというと曖昧な意味にしかならないのでもっと簡単に言えば、彼らは須く逃避という行動に出る。
 逆境とは、自己の精神的状態が安寧のプラスの値からマイナスの値へ推移することによって起きるが、最初の値が既に贅沢なくらい高ければ、その精神状態の落ち込みが僅かでも、当人にとっては大きな問題となる。裕福な家庭において親と自分のやりたいことにズレが生まれた少年や、自身の贅沢な暮らしとエルサルバドルの貧困状況を比較してしまった女は、もう少し贅沢でない暮らしをしていれば精神病になどならなかったはずだ。
 でも面白いのは逃避行動が"そうできる立場"において起こるだけあって、彼らにはそれが最終的に利己的利益を得られるようなものになっていることだ。ヴィレット(精神病患者用施設)は彼らを無碍に衰弱死させるようなことのない都合のいい退避地帯になっている。贅沢でいびつな社会の象徴としての施設だ。登場人物の狂いかたもいびつで、例えば有意識上では死にたいのに睡眠薬を飲むという面倒なことをして、結局のところ致死量に足りずにヴィレットに収容され、蘇生される。あの少年は両親と離縁して夢を追い続けることはしなかったし、あの女はエルサルバドルに向かうことをしなかった。それらは逃避以上に危険でエネルギーが必要な行動になってしまうからだ。かといって逃避行動をしない程には意志薄弱な人たちではないという悲劇。
 知識や愛を享受できる余裕がある環境ゆえに育った自己の欲求が、理屈や教育に阻まれて、愛してくれた人に反感するほどの無思慮さはなく、まず自分を傷つける。そして自分が傷ついても、自分は未だに愛されているから、その傷を放置されることはない。そうしてようやく、優しくしてくれる人を遠回りに傷つけることができる。
 狂う、狂人、ほかにも純愛なんて言葉もそうだが、そういう言葉に一概にとらわれると対象のバックボーンを説明しなくてよくなってしまう。登場人物の内面世界は書かれているのだから、読者にとっては既に狂人と呼ばれる人たちを狂人と認識することはできない。外から見て論理的に説明のつかない特殊な思考形態をしているものを、狂っていると呼ぶ。規律がより高度になっている現代において、狂人の敷居は決して高いとは言えない。そういう意味で、現代的な狂気の指すところは"狂気とはね、自分の考えを伝える力がないこと"とある女が語るものは確かにそうである。

 以下、覚え書き。
 インシュリン・ショック療法:統合失調症(精神分裂病)の治療法。空腹時にインシュリン高単位を皮下注射し,低血糖による昏睡(こんすい)を起こさせ,30~60分後ブドウ糖静脈注射で覚醒(かくせい)させ,十分な食事を与える。このときの低血糖化がインシュリン・ショックと呼ばれる。
 ヴィトリオル:vitriol。作中では憂鬱を引き起こす特定の化学物質のことを指す。あるいは単に憂鬱の言い換え。辞書によると硫酸、硫酸塩、礬類のこと。一一〇頁も参照。
 リュブリャーナ:リュブリャナ(ライバッハ)。スロヴェニアの首都。リャブリャーナにある精神病患者用病棟のヴィレットと呼ばれる施設が物語の主舞台。
 憂鬱について:一一〇頁
 規律について:一二八頁
 映画:一三八頁の"エル・サルバドルの貧困を描いたフィルム"が不明。

H・G・ウエルズ『タイムマシン 他九篇』(橋本槇矩訳)


 面白いし、特に『水晶の卵』、『マジック・ショップ』、『塀についた扉』、『盲人国』の幻想的な雰囲気は好きだけれど、後に残るモノがあんまりなくて刹那的すぎるような気もする。そういうわけで気楽に読めるのではあるけれど、そういう快楽を求めるならウエルズでなくてもいい。既にこのくらいのセンス・オブ・ワンダーは知ってしまっているから。

 『タイム・マシン』:古典タイムトラベルもの。未来に行ったら案の定ディストピア。『夏への扉』よりも真面目なタイムスリップ論理で、冒頭の時間次元説明は上手い。この小説が書かれたのは特殊相対性理論が発表される前だから、時間次元の移動=時間次元の基本速度(光速=c)-三次元移動の距離(素人の簡単な計算モデルですから!)みたいなのは確率されてなかっただろうからこそ、簡単な説明で終わって、だからこそ時間次元の遡行が可能なんだろう。未来から帰ってきた男の伝聞を書き留めたという形式の文章で、その男の体験談自体はありがちでそんなに興味深くはないけれど、男とその話を聞く人たちの反応が楽しい。
 『水晶の卵』:謎の卵形水晶を手に入れた骨董屋の話。ちょっとまじめな雰囲気の怪奇小説風味。短編なので詳しくは語られないけど、物語の裏に陰謀と秘密がありそうで魅力的な雰囲気が漂う。
 『新加速剤』:知覚・運動能力を向上させる薬を開発して、自然に感じる速度との差を体験した二人の話。もうほんとうにそれだけの短編。
 『奇跡を起こした男』:地球がほんとうに静止しちゃったコメディ。バカすぎて笑える。ネタバレが惜しいので語らないことにする。
 『マジック・ショップ』:『水晶の卵』よりもちょっと不気味な雰囲気のファンタジィ。
 『ザ・スター』:妖星と和訳されるらしい。『ディープ・インパクト』とかのスペクタクル系。ちょっといい感じに終わったかと思ったら最後が笑えるオチだった。
 『奇妙な蘭』:あっさりすぎる怪奇小説。
 『盲人国』:良き青空を!

アガサ・クリスティ『オリエント急行の殺人』(長沼弘毅訳)


 クリスティ(ていうか"お転婆さんなメアリ"?)の小説を読んだのは久しぶり。もう何年か前に『そして誰もいなくなった』を読んだ以来か。案の定、登場人物が多くて名前が覚えられないんだけど、それすらもミステリーを読みながらメモをとるタイプにとってはご褒美……とも言えると思うんだけど、違う?ドイルの小説は短すぎるし、ホームズがめちゃくちゃ少ないヒントを勝手に見つけて事件を暴いてしまうし、京極の小説は「わかるわけないじゃん!トリックとかじゃないしっ!」状態。それに比べてまっとうなミステリーだから、読者も推理を楽しめるという。読後に何かが残るとかはまったく皆無だったんだけど、そういう方向では楽しめた。
 ところでクリスティがアメリカ人をどちらかといえば軽蔑していると解説は語る。これは偏った意見ではないだろうか。たとえ作中でそう話している人物がいてもそうは限らない。それではあからさますぎる。むしろ反対ではないだろうか。
 あと最初に着いたのはハイダルパシャ駅 - Wikipediaというすごく綺麗なところ。

フロイト『精神分析学入門』(懸田克躬訳)


 講義録。たいして興味深いとは感じないが、フロイトの考えかたは広い分野で登場するので読む必要があった。ところでぼくは幼児性の夢しか見ないのですがフロイト的にはどういうことでしょう。
 ヴァギナデンタータについてはその名前こそ出てこないけれど、ヴァギナ・デンタタ - Wikipediaと照らし合わせをすれば理解できる。リクオー!(『なるたる』)
 講義形式としては大きく三段階に別れて順に理解できるようにしている。内容的にはかなり強引な結びつきで論理展開する部分もあるので納得はできないが。

2009年8月9日日曜日

チェーンフォールプロテクター

 RIO GRANDEのチェーンフォールプロテクターを買って自転車に付けてみた。ギアチェンジしたときにチェーンがスプロケット(あの歯車みたいなパーツ。というか歯車)から外れてしまうのを防ぐらしい。チェーンが外れてしまってそれを戻すために手をベタベタにした経験は誰でもあると思うけど、それにオサラバ……できるといいなあ。付けてみたところなるほど、これは単純ながら効果的っぽい見た目。けど、チェーンが外れる機会もなかなかないわけで効果測定が難しい。最初はサードアイ製のものしか知らずにそれを買おうかと思ってたんだけれど、自転車屋にいったらRioのものしかなかったので結果的にこちらを入手した。しかしRio製の方が安かったので少し得した気分。

サイクルベースあさひ チェーン サンエス [Third-Eye]CHAIN-WATCHER チェーン脱落防止
サイクルベースあさひ チェーン リオグランデ チェーンフォールプロテクター

2009年8月5日水曜日

ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(小尾芙佐訳)


 これ、幼児性を示すチャーリィはmixiとかですごい楽しそうな人だし、知能が上がったチャーリィははてなでブコメを集める人だよなあ。どっちから見ても「隣の芝生は青い」。以下、雑文。

 SF的なギミックの使い方はそう面白いものでもない。テッド・チャンの『理解』は知能増進という点では似ているが、その決定的な先にある非人間性を描写し、後述する二重性すら利用して精神のメタプログラムを行う。ありえないものを魅力的に見せるアイデアへの奉仕というSF小説の醍醐味のひとつは、この小説のかなめではない。どちらかといえばメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』に類似性が認めらる。オールディスが『十億年の宴』で述べたような現代SFの元祖という意味ではなく、ストーリィの構造自体がフランケンシュタイン・テーゼを担っているということである。ミルトンの『失楽園』が作中でも何度か登場することによってこのことを確信した。コミュニティから排除される人間は、孤独に何を見るか。社会を知っているからこそ人の暖かさを求めるが、その上で社会に隔絶されているからこそ自体愛的になり自己理解を深めようとする。そして大抵の場合、自己崩壊に陥る。なぜなら元来われわれの精神には生きる価値など存在しないからである。有性生殖を進化戦略的に選択し、さらに社会を構成したために一人であれば無慈悲な崩壊が待ち受けているのだ。個体的に述べるのならば、社会にあっても死は免れないが、社会構造として生きている限り、その個体は遺伝子のヴィークルという生物学的価値と社会構造の歯車という二重の価値を持ち、その中で意味を持つことが可能である。ではチャーリィが孤独であるというのは真であるだろうか。
 この小説では『フランケンシュタイン』の別の読解の仕方であるドッペルゲンガーを主題としたものも表現している。二人のチャーリィはん、身体性と精神性の二つの構造体に結びつけられる。ドッペルゲンガーを主題とすることはつまり、アンビバレントな性質のコンフリクトによる苦衷に何を見るかを画くことである。最前述べたような自体愛を見いだすのもそうではあるが、それが他人への愛に<転移>するのは幼児性を担うチャーリィだ。フロイト的解釈であればナルシシズムにならず、他人へ愛を<転移>させることは幼児性からの成長であるが、ここでもまた複雑な入れ替えが起こっていることは、チャーリィという人物の二重性が、単なるジーキル=ハイド的な価値観テーブルをオーヴァーライドする二重性でなく混沌とした二重性を持っていることが読み取れる。こうした複雑な二重性を持つために、チャーリィは人の環の中にいながらも隔絶された人物として表現される。
 ぼくが今回読んだものは、文庫版であるが、冒頭に「日本語版文庫への序文」として著者の言葉が載せられている。”知識の探求にくわえて、われわれは家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべき”とあり、著者は明らかにモラル・フェーブルとしてこの小説を書き記したと表明している。しかしフロイトは<無意識的>と<意識的>という心的装置の構造をわれわれに提示し当時の精神分析学が、そして現代の脳科学が、さらに哲学がそれを単純な問題解決方法として否定する。このことをダニエル・キイスが考慮しなかったなどとは思えない。それによりこの序文の言辞は著者によるリップサーヴィスでしかないと考えることはできないだろうか。エピグラフにおけるプラトンの『国家』よりイデアを説明する洞窟の比喩(514A~521B)が引用されていることにはモラル・フェーブルとしてこの小説を読んだ場合には違和感を残す。プラトンは哲学人による政治を最善なものだと提唱した。知性の遡行、すなわち悪意に対する知覚を損ない、角逐を避けた末にできる本当のところの友でないものに対しては厳格な態度を示していただろう。幼児性を示すチャーリィをプラトン的に救い出すことは難しいように思えるからこそ、そういった想いに帰着した。
 つまりこの小説は単眼的な倫理よりも全方位的な知性へのオードであるように思う。チャーリィは地獄の熱さの中に見つけた廂間で、科学への挺身に価値を見いだしたのだ。そのことに善悪の判断を付けられるものではない。もうひとりのチャーリィが暗闇の中で幻想した人の温もりもまた、それが単一方向への愛だとしても、それをぼくは哀れまない。たとえばこれがまやかしであるのは明らかだが、この作品を評価する文章ではこの無知ゆえの友愛が「純粋」だと表現するものがあるのも確かだ。この点について一言述べるとするならば、それは純粋なのではなく、友愛意外を選択することが不可能なのである。そういったモラル的な問題を断定できる能力を私は持ち合わせていない。この作品はフィクションではあるが、決して喜劇の色が強いものではない。だからダニエル・キイスはチャーリィに明確な崩壊を与えた。崩壊があるからこそ、その合間の中でぼくは悲喜劇の中の人物について感じることができた。そうしてアルジャーノンに花束を贈った瞬間のチャーリィにぼくはようやく、どうにかして一部だけ同化できる。

2009年8月4日火曜日

この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ - Tokyo Figure Show


 原宿のH&Mで今日から開催されていたTokyo Figure Showを見てきたけど、あんまり楽しめなかった。そもそも今のところグッスマフィギュアで見たいものというのが存在しないという要因もあるんだけれど、それ以上にあの空間が楽しさを演出できるようなところではないように感じた。本来はフィギュアに出会うことのない客層を狙ったイベントであり、アクセスの容易な場所での開催や、入場無料という入りやすさは良かったけれど、ちょっと期待外れというか想像していたのと少し違った。正直このイベントを褒賞してるのは主催のダニー・チューからオープニング(一般公開前日の夜?)に招待された人だけっぽいイメージが。
 まず入り口で少し戸惑う。ぼくは「服を買いに行く服がない」というほどの人間でもないし、原宿はそれなりに行きなれていることもあってあの街に劣等感を抱いてはいない(ただ良い街だとは思っていない。新宿と違って中身のない街だ。青山や渋谷の方がよっぽどいい)が、入り口にはカップルか女性二人組くらいしかいないのだ。クロスバイクで一人でここまで来たぼくは修行僧の心でエレベーターの列に並ぶ。
 エレベーターで九階まで上ると展示ブースとなんとか呼べるくらいのやや窮屈な空間にフィギュアが飾ってある。先にエレベーターを降りた人たちはその展示ブースを通り過ぎて、グラソービタミンウォーターを無料配布し、休憩所にもなっているひとつ下の階へ一直線。ええ、ちょっと待って、待ってよ……フィギュア見ないの……
 おかげで一人で発売前のフィギュアを観賞できたのではあるが、なんとなくスタッフのお姉さんとお兄さんの視線が痛い気がした。どうしてこんな想いをしてフィギュアを観なくてはならないのか。再び修行僧の心で買う予定のないフィギュアを観る。figumaシリーズは可動する代償としてどうしても見た目が不自然になっているから興味がなかったけど、印象より小さい。紅月一のレウコテアもそうであったけれど小さいフィギュアは繊細さが際だって普通の二〇センチ超のものたちとはまた別の良さがある。やっぱり写真と実物を見るのは違う。もちろん関節は人体を人体たらしめる非常に重要な部位なので、未だにfigumaに対する評価を覆すことはできないな、とか思っていた……が、そんな余裕も長くは続かず、ぼくも早々に下の階に逃げ出してしまった。グラソービタミンウォーターは美味しくなかった。