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2009年6月28日日曜日

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』インプレメモ


 なんだかんだで初日に観に行って、本編はじまってからずっと嬉しさでニヤニヤしながら観てた。とりあえず雑駁なものになっちゃうだろうけれど感想をば。ネタバレは多分ほとんどなし。

 CGは使いどころによっては良かったと思う。問題は手描きならどうなっていただろうと常に想像してしまうところ。でもCGなりに良かったと思えるシーンはあって、まずこれはパンフレットの最初のページにも載ってるけど、アヴァンの仮設5号機と第3使徒が辺獄エリアからの最終封印を破って地上に出るカット――それにここでは画面が暗いからごまかしは効く――や、それから第8使徒の落下ポイントに初号機を間に合わせるために最初の緊急コース形成をしてワイドショットでエヴァが街を走るカットとかは、いやここはギリギリかな……でもまあ良かったんじゃないかと。あれくらいのロングショットならCGを使っても問題は少ないのだと思う。両方とも細かくて速い繰り返しの動きと画面内で物体が空間を移動する描写だった。だからそういった動きに特化した被写体である第8使徒がはじめてネルフの司令塔のモニタに映し出されたカットでは、抜群の効果があった。
 しかしもっと被写体が近くなってしまう場合では、まあ好みの問題ではあるんだろうけど流石に手描きの方が好きだ。歪みとか省略とか癖とか、やっぱりそういう部分も逆の性質の正確さと総合して気持ちよさを与えてくれてるんじゃあないかと思うので……こういう比較は無意味だろうが、補説として書くと、つまり旧劇場版の『Air』でエヴァ弐号機と量産機が最高のスタッフで最高のアクションをする。あの時の快哉を呼び起こす作画は、こういうとアレかもしれないけれど3DCGじゃできないものだと思う。それこそアニメータが手描きにこだわって、観る側もそこから離れられない理由なんだろうし。斯様、『破』において『序』以上に挑戦的に取り組んだ3DCGはスタッフの労力を減らしたというプラグマティックな功績はあるのかもしれないけれど、『序』のような使い方でなければ正直、映像の気持ちよさは下がってしまうのかなあ……これは誹謗している訳ではない。何年も続いてる課題の一つだと思う。結局いろんなアニメで「3DCGの使い方が良かった」なんて言われることはあっても、上手い手描き作画より良かったかという冷厳な疑問を提示されると言葉に窮してしまうような状態は誰もが本当は理解してることだと思う。
 それから当然A.T.フィールドの描写はたぶん全てCGになっていて、これはいろんなことができて便利な一方、ちょっと目立ちすぎなのかもしれないと思わされる。2号機と第10使徒の戦闘で「零距離ならば」って実弾銃を何カ所も撃ち込んでもフィールドに弾かれるカットなどでは目立ってたわけじゃないけれど、その前のワイドショットで画面左下から2号機が画面右上の使徒に銃撃を浴びせようとしても多段フィールドで遮られるカット。つまり「A.T.フィールドが強すぎる」って科白の1カット前と、それから第10使徒と初号機交戦時に三次元的なフィールド描写になって使徒を吹き飛ばすカットは他の部分よりフィールドの描写が目立つ。これは『序』で第6使徒についての評判がとても良かったから、そのフィードバックとしてなんだろうけれど、その使徒の時って長距離戦だったから他の被写体と一緒に画面内に入り込むことがなかった。けれど今回はその典型的CG描写をそれ以外のものと一緒に画面内に配置しなければいけなくなって、これはとても難しい部分だと思う。外連味という点ではいいけれど、古典的アニメ好きとしてはやっぱり手描き部分でもっと色々見たい。けど多分次回の『Q』ではもっとこの典型的CG描写と手描き作画のものが混じってくるんじゃないかと思う。それも上手い具合に。もちろんそのときにも違和感はぬぐい去れないだろうけれど、そこが挑戦のしどころなんだろう。
 余談、あんまり関係ないけれど『咲』もそれなりに上手くCGを使ってる作品だと思う。クローズアップで牌と指先だけを映すカットは劇中何回も使われるけれど、あんまり違和感がない。少しカメラが引くと一気に違和感が出てくるけれど、あれはなかなか凄いんじゃないだろうか。
 それからエヴァって他の作品よりも現象の描き方は気が利いてるなあと思うところがある。演技とかは上手いけど、京アニやボンズとそこまで差がつくかは正直ぼくにはわからない。でもこういった巨大ロボットものってスケールが大きい割に、ハリウッドのVFXフル使用の映画に観られるような事態の大きさがちゃんと画かれていることが少ないけど、エヴァはそれがちゃんと描写されてる。たとえば前述した緊急ルート形成も(ご都合すぎだろ!って突っ込みはナシで)そうだし、『序』のヤシマ作戦で地形が大きく変わってた部分や第6使徒の攻撃の衝撃波で周囲が吹き飛んでたのもそう。今回一番良いと思ったのは第8使徒の迎撃で初号機がカメラから離れたところを高速で移動した後、カメラに向かって衝撃波が迫るところ。やりすぎかもしれないけれど、こういう非日常的な物理現象がわかる描写っていうのは好き。
 余談再び、現象といえば結構気になっているものがあって、『亡念のザムド』第一話の伊藤秀次がやった校舎が爆発するカット。ここで校舎は爆発して一端破片が周囲に飛び散るけど、そのあとに爆心地に向かって破片や周囲の人間が吸い込まれるような突風が起こる。まあ爆発によって空気が失われて、そのあと周囲の空気と均される自然現象のために風が吹き込んだんだろうとも思ったけどこれは違うっぽい。破片が空中で一端静止しているのでそういった現象ではないと思うし、それならすこしやり過ぎだと思う。この現象はどうなっているのか結局わからない。誰かわかる人いたら教えて下さい。余談終わり。
 ということもあって、これは巨大ロボットアニメとしてすごく良くできたものだったし、ストーリィは……まあ完結してないのでなんともだけど、観てる限りでは普通に面白い。今後のロボットアニメ制作にまたエヴァの壁が立ちふさがるなあと思う一方、ぼくはこの映画を観れてとても嬉しかった。良い意味でニヤニヤしながら観られる映画なんてそうそうないし。これは十以上年前に『エヴァンゲリオン』がぼくに植え付けた衝撃のせいなんだろうけど。ということは、ぶっちゃけるともう映画を観る前に最終的な勝負は付いてるんだ。あとはもう自分の眼がどのくらい凝らせることができるかが問題なわけで。

2009年6月25日木曜日

表現規制はゲームだけの問題ではございません。そしてわれわれ抱える不都合な真実もあるのでしょう(テイク2)

 以下はmixiで書いた文章([mixi] 表現規制はゲームだけの問題ではございません。そしてわれわれ抱える不都合な真実もあるのでしょう(テイク2))の転載で、blogger用に少し読み易くしたもの。久々に自己満足以外の文章を書いた気がする。でも得られるものはとても大きかった。



 文章についてアドバイスを頂いたので書き直しました。これはテイク2。[]でかこまれた脚注は重要ではないので最後のあたりにまとめてあります。人に読んでもらいたいと思って書いたのでいつもと違う感じがするかもしれません。

 まず表現規制の現状です。ステージは既に一部のエロゲーにとどまっていません。年齢制限のないゲームにまで話が及んでいるので、今後も対象は拡大しかねないと思います。過去でも現在でもさまざまな著書や映画が、その時の政権の為に発禁・配給停止処分を受けた[*1]のと同じようなことが、現状では問題なしとされる娯楽作品に対して、ジャンルやメディアを問わずに訪れる可能性も否定できないでしょう。自主制作ですら公表すればその対象になると思うので、同人は安全というのも間違いなんじゃないかと考えています。
 規制の勢いもあって反対運動も活発化していて、署名の紹介などは見かけますけれど、これも逆に強引なこともあるので考え物だなあと感じるものもあります。

 基本的にどんな規制の建前も「犯罪や性別の根を絶つ」だったり、それなりに倫理性を持っています。対する反対意見の建前もだいたい「表現の自由を守り、自主性を持つ」ということです。
 でも強引な方法はテロリストなんかを見ればわかりますけど、歯止めが効かなくなると逆効果です。比喩が突飛すぎたなら格ゲーで勝つために永久ループでハメるのと同じことだと思って下さい。これは間違ったやり方なので、逆に相手方に叩かれます。テロリストは報復を受けますし、格ゲーはバランス修正によりキャラが弱体化します。歯止めがきかなくなることはなくても、間違ったやり方になるとテロリストは逮捕されて人生を棒に振りますし、格ゲーでは相手にコンボの機会を与えて体力を持っていかれます。

 ならそういったことにならないようにちゃんとした対応をするにはやっぱり情報を得るしかないんだと思います。要するに『涼宮ハルヒの憂鬱』の「射手座の日」ですね。索敵してから攻撃です。
 今回の騒動、つまりイクオリティ・ナウという組織が日本の娯楽性を批判しはじめてから(正確にはイギリスのKeith Vaz与党労働党下院議員が政治的地位を得るための手段として日本のエロゲーをとりあげたことがきっかけですが、これは後になって知られることとなりました。 [*2])、「はてな」界隈では激しい論争が巻き起こりました。ホットエントリーやトラックバックに目を通すのは苦労しますが、いろいろな意見を知るのはそれなりの価値はあるんじゃないでしょうか。
 そしてその際には規制派をばかだとか罵倒したくなることもありますけれど、ここは抑えるところだと思います。相手の言い分にも耳を傾けることは必要でしょうし、いや、その上で罵倒したくなるかもしれないですけど、やっぱりここは冷静にいくのがいいと思います。ネットで話すとその話は他人も見ることになるので、自分ではそのつもりがなくても、周りが一体になってリンチ化してしまうということにならないようにする……ということでしょうか、多分。あんまり罵倒しちゃいけない理由を思いつかないんですけど、そんなところです。

 情報の集め方は一つのニュースサイトを見るといったものではやはり偏りが生まれるのでもっとソーシャルなものがいいと思います。Diggや Deliciousなどが海外では情報源として上手く作用していますが、日本ではやはり「はてなブックマーク」でしょうか [*3]。ぼくはRSSで配信されるホットエントリーをRSSリーダーで読んでますけど、このへんのRSSとかの意味がわからない人は例えば手始めにタグ「表現の自由」を含む新着エントリー - はてなブックマークなどでタグを指定して関連エントリーを見てみるのもいいかもしれません。今回の騒動に対する文章は、最近のホットエントリーを前提に書かれていることが多いように思うので、それを読むためにも土台として有効です。

 それでぼくも最近Twitterで「エロゲ批判への批判で単純に犯罪率を持ち出すのは最近のことでは時代遅れだけど(僕自身がそう言ってしまった)、かといって簡単に無視するのは短絡的だったな。倒錯は破壊的であるどころか、社会的に建設的な身振りであるというラカンの論の典型例がある。」とか言って自身の短絡さを認めたんですけど、っていうかこの文章自体書き直しなんですけど、間違いは認めちゃっていいと思います。泥沼になるよりはすっきりしますし。「アイツ前は違うこと言ってた」とか思われたり、実際叩かれたりすることはあるかもしれないですけど、「そうだよ、考えは変えたんだ」って言っちゃえばいいと思います。

 結局ぼくの規制に対する意見は正直なところをいえば「ゲームやアニメの自由な物語がなくなるなんてイヤでござる!映画や小説も自由がいいでござる!」(=好きにさせてくれ!多分いろいろ大丈夫だから!)です。
 建前は他の人と変わらなくなっちゃいます。「法律にものごとを委任するのは、そのものごとに対しての自主性をいくらか放棄することです。社会主義・共産主義社会では民主主義・資本主義社会よりも多くの情報が規正され、国民は監視されています。それは日本で生まれ育ったわれわれが持つプライベート、個人性というものを諦めなければならない社会でもあり、そういった社会は望みません」……といった感じです。
 でもやっぱりエロゲとか、まあ低俗に思われるかもしれませんけど、それでぼくもプレイして失ったものはあると思いますけど、やっぱり色々得てるんですね。そんな自分の故郷的なものを失いたくないんですよ。優しかった父親がいつも母に暴力を振るうようになって、そんな父と仲違いして、結局父を捨てて家を出た家庭の人間が故郷とかそんな思い出話はチャンチャラおかしいかもしれないですけどね。そういう過去のものじゃなくて、ゲームとかアニメってまだ関係が繋がっている状態じゃないですか。だからそれを壊さないでほしいんですね、きっと。なので規制反対の人にもだけど、規制派、規制とか関係ないよ派の人にも、今よりもっと良い手があるかもしれない。良い手が何なのか、ぼくにもわかりませんけれど、それを見つけ出してほしい、あるいは一緒に見つけ出したいということを思って今回の文章を書きました。


■脚注
*1 - 禁書 - Wikipedia
*2 - イギリスにおけるレイプレイ事件とその社会的背景について - I11 - はてなハイク
*3 - フォークソノミー - Wikipedia

■関連リンク(このエントリーにまとめちゃいたいので随時増えていくはず)
osakana.factory - エロゲー規制派・児童ポルノ規制派の考え方の恐ろしさ
王様を欲しがったカエル | たちばな書店・秋葉原店が警察の捜査を受けたという情報に関して。
 このへんまではまだ危機感は上記文章を書いたときのままだったけれど、以下のニュースを観たところから規制派は本当にヤバい、マトモな法案と考えられるレベルを超えた強引さを見せるようになる。例えば「私はわかりません、見てない・知らないですが規制します」「ポルノかは見た目で判断、芸術も否定します」ファシストか、それか個人のために法律を利用しようとしているのか――後者ならたとえば新しい天下り先に監察機関を作るなど――、もうどちらでもいいけれどこんなことが許されるべきじゃあない。名目上は日本は民主主義国家だ。
『Santa Fe』を1年間で処分すべしとする与党案に驚く - 保坂展人のどこどこ日記
児童ポルノ改正案 与党案はジャニーズも規制範囲 働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww
痛いニュース(ノ∀`):自民「送付された児童ポルノでも1回開いたら有罪。写真など年齢が分からない場合は全て破棄すべき」

2009年6月23日火曜日

CPUクーラーを取り付ける部分が壊れた

 PCの中を掃除していたらマザーボードに取り付けてあるCPUクーラーを設置する部分のツメが取れてしまった。こういった事態ははじめたなので心配になったが、とりあえずマザーボードの写真をプリントアウトしたものを持ってヨドバシに行って、この部分が壊れたのだが交換品というのは売っているのかと聞いてみたらすぐに出してきてくれた。それで買ったのがAinexのBM-AM2(リテンションキットAM2用)というもの。もし螺旋の大きさが違っていれば、マザーボードをいったんケースから外して裏からバックプレートを取り付けて、それからの作業となるらしい。ぼくが使っているM2N-Eは螺旋の大きさも合っていて、プラスチックのリテンション――つまり破損した部品――だけを取り付けるだけで済んだ。

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳)


 「たまには恋愛小説でも読むか。この名前だけ有名なやつ。ほんとにこれを今読むべきなのかな?Muss es sein?(そうでなければならないのか?) Es muss sein!(そうでなければならない!) Es muss sein!(そうでなければならない!)」と手にしたこれだけれど、恋愛小説じゃなかった。恋愛って何だろうって話でもあるが。これが恋愛小説であろうとなかろうとこの本でなかなか面白かった部分であり特徴は、思弁的というか、形而上な形で語られるその人生観だった。端から見たら浮気性の男と独占欲の強い女の夫婦が不自由な社会情勢下で苛々しつつ、それでも離れられない~な話だから作者がこねくり回した人物の内面しか面白くないといえばそうなんだけれど。しかし読み終わったところで結局、タイトルからも重要性が見られ、冒頭でミステリアスな対比とされてる「軽さと重さ」って何だったのかはわからなかった。これは答えのない問いであって、つまりそれは柵であり、その柵が人間境界の限界。でも人間境界を広げていくことが知性を発揮させるということなんだろう。柵を跳び越えんとするバイタリティ。でもそんなのは否定されておらずとも、むしろ反対な生き方を画いた小説だったな。うん、わからない。

2009年6月13日土曜日

スラヴォイ・ジジェク『仮想化しきれない残余』……は読めなかった


 せっかく後輩に頼んで借りてきてもらったのにくやしい。途中まで読んだけれど、ドイツ観念論とか全然知らないから一割も理解できなかったので断念。やっぱり学問の分野なので、一歩ずつ前進していかなければならない。ただわからないなりに勉強になったところっていうのはある。サイードの『オリエンタリズム』もわからないところは多かったけれども、調べつつ知識を増やせた実感はあったので……にしても理解できる割合が少なすぎたので最後まで読むまでにはいかなかった。

2009年6月10日水曜日

カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』(浅倉久志訳)


 スーパー・ヒーローがタイタンに住む妖女に惚れてしまい、好きなように利用された挙げ句に捨てられるが、そこに自由意志を見いだす話だと思ってた。案の定、全然違う。
 『タイタンの妖女』は独創的な設定を持つ物語ではなかったし、それどころかSFというよりもファンタジィに分類されてもおかしくないような舞台だった。こういったことを鑑みるに、ぼくが『サロメ』や『ファウスト』といった戯曲の好ましさを理解できないところと、この作品を理解できないところに類似点は存在するのかもしれない。
 荒唐無稽でSFのリアリズムを感じないような内容だったのであまり趣味ではなかった。いわゆるワイドスクリーン・バロックといわれるものらしいが、提唱者のオールディスの作品を含め、このテのSFは心理描写が緩いというか、生存本能的なグロテスクな欲望を伴う感覚が文章から強く醸されていて苦手。緻密な心理描写が書かれない反面、そういった心理を書き出すので、子供じみている、あるいは未開人じみた人物描写になって、その行動理念がよくわからなかったりする。そういった理解できない点があると、物語が進んでも感情移入できずに文面をなぞることになる。
 主人公はマラカイ・コンスタントという人物で、一応この人物を中心に物語は画かれるのだが、読み終わってみると、このコンスタントや他の人々の人生を操る存在のウインストン・ナイルス・ラムファードが主役だったように思えた。『ガンダム00』に例えるとコンスタントが刹那たちのソレスタルビーイングでラムファードがイオリア・シュヘンベルグ。ラムファードは時間等曲率漏斗に飛び込んで、無時間的性格の擬似的な永遠の存在になるが、あくまで元は人間であり、その思考は元の存在が可能な範囲を離れることはできない。こういった存在だからこそ、劇中で頻出する「単時点的(パンクチュアル)な意味において」というフレーズに代表されるように、我々にとって決して単時点的だと一蹴できない時間を、他人の人生までも使う冷酷さを以て利己的な人類救済に乗り出す。でも読み終わるとわかるんだけども、「それって別に何もしなくても良かったんじゃないの?」という『エウレカセブン』的な後味の悪さを感じずにはいられない。まあ、それを言ったら身も蓋もないんだけど。
 それから理解できないのはコンスタントとビアトリスの息子であるクロノと、火星兵のボアズの退場の仕方。ボアズはコンスタントと地球に行くはずが水星に不時着してしまい遭難する(もちろん全てラムファードに仕組まれている)。そこから地球に帰る方法を見つけ出すのだが、ボアズは水星に一人残ることを選択する。なぜならそこには原始的な動物がいて、ボアズはそれらと他者が理解できない形で友情を結んでしまったからである。ボアズにしろコンスタントにしろ、この時既に地球で暮らしていた過去の記憶は消去されていた。未知の星での暮らしより、安定した静寂を選択したということだろうか。ともかくボアズはこんな理由で物語から姿を消す。そしてクロノは物語の後半にタイタンで生活するとき、人間としての生活を止めてタイタンツグミ(そのまんまタイタンにいるツグミ)の仲間になってしまう。劇中では、このことに特に説明はない。なんて超展開なんだ!納得のいく説明が欲しい。

2009年6月2日火曜日

京極夏彦『姑獲鳥の夏』、『魍魎の匣』



 京極夏彦の名を知ったのは『水月』というゲームが契機だった。その劇中では具体的に名前は出てこないけれど、『水月ビジュアルファンブック』という本の一一一頁で脚本家のトノイケダイスケが影響を受けた作品として挙げているのが『魍魎の匣』だった。その後でも漫画版『ルー=ガルー』はぼくは絶賛しているし、昨年末には『魍魎の匣』はアニメにもなった。大好きな同人ゲームの『Omegaの視界』も京極作品のオマージュと言える。ここまで周辺のみに触れていたけれど漸くデビュー作の『姑獲鳥の夏』とその次の作品『魍魎の匣』を読めた。
 読んでみて予想外だったのは、解説がとても丁寧にされていることだった。京極堂――本当の名前は中善寺秋彦――というホームズ役は、事件に巻き込まれたワトスン役の文士・関口や刑事・木場に必要ならば丁寧に説明をよこす。説明をよこすことによって事件を解決に導く行為は「憑き物落とし」などと劇中で呼ばれる。真実の一面にのみ目を向けて、自己を失いかけた時に憑き物落としは必要になって、京極堂は重い腰を上げる。自己を失いかけるときはつまり読者が物語の主観と同一の視覚を失うときである。ウンベルト・エーコのペダントリなミステリ長編『フーコーの振り子』では、人物が揃ってオカルトの入り口を覗き見ている間に、いつしか戻れないところまで堕ちてしまっていた。そのとき彼らの言葉、彼らの意志は普通には認識できない方へ向かっていて、当然何がどうなっているのか読んでいてわかりにくい。京極堂は古本屋でもあり陰陽師という一見怪しげな人間ではあるが、とてもプラグマティックな動作をし、読者を同一視点に巻き込む。ぼくはミステリを読んだ数は少ないけれど、ミステリに関わらず理解というのは物語に於いてその時点でカタルシスを得られる要所なんだと思う。そして謎を、動機の細やかな部分まで徹底的に解かす京極堂の語り口は解き明かされた側にはともかく、傍観者の側からすると心強い存在だった。