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2009年5月31日日曜日

レイプゲーム規正問題についてちょっと突っ込んでおく必要がある人たちがいるので

 mixiを見る限りでは、どうにも今回の陵辱規正について勘違いしている人が多いようだ。まあ詳しくは「表象は読み解かれなければならない - 地を這う難破船」が文章も綺麗だし、わかりやすいと思うけれども。

 ところで規制推進派にはこのフレーズがふさわしい。グレッグ・イーガン『道徳的ウイルス学者』(山岸真訳)からの引用だ。
あんたは特定の道徳律を生きる指針に選んだ。それはあんたの権利で、がんばりなというほかない。でもあんたは自分のしてることに、ほんものの信念をまるでもってない。自分の選択にどうにも自信がないから、自分は正しいと自分に証明するだけのために、ほかの選択をしたあらゆる人に地獄の業火を浴びせる神を必要としてる。神が願いをかなえてくれないと、自然災害をあさりまわって――地震、洪水、飢饉、伝染病――“罪人たちへの罰”を選びだす。神が自分の味方だと証明したとでも思ってる?あんたが証明したのは、自分の自信のなさだけなんだよ
 推進派にも反対派にも言えることで、以前ランティスによるアニメキャプチャサイトへの規制を述べたときにも書いたけれど、こうゆう時にやれ道徳だの法律だのを建前にしてのみ自己の正当性を肯定できないのはほんとうに馬鹿だ。そんな一時的なものは、そのときだけを考える政治家にとっては便利な代物だろうし、日々の生活では他人と不和を起こさないためにも、我々にとってだって便利だろうけれど、それが何の疑問を持たずに肯定されるべきものではない。同性愛だって禁止されてるところもあれば、許されているところもあり、歴史をふりかえれば紀元前のギリシャではプラトン先生は公然とそれを語り、またあの時代の人間はほとんど誰もがそれと同じであった。だから前述した道徳・法律を前面に振りかざすだけでは少なくとも真面目に議論をする場合は説得力にならない。
 反対派が他のジャンルをスケープゴートにするのもよく聞く話で、たとえばFPSや暴力表現を表に出した他のジャンルのゲームの規制の方が先であるとか、あるいはドラマや映画に見られる暴力・性的表現を見過ごすなというものだ。この主張もひどい。つまりいずれにせよ、それらも含めて自分たちの嗜む表現媒体が規制されるべきであると謳うことに他ならない。まとめて規制されたら納得するのかと言えば違うのだろう。あと反対派の人が未だに勘違いしてる「実際の被害者はいないじゃん」っていう古い論理はさすがにもう突っ込む必要はないだろう。正直そんな発言は、情弱もいいところです。

――十年後くらいに、『レイプレイ2』が発売して「あの衝撃の問題作が帰ってきた!」というキャッチコピーになっていることを期待しながら、エロゲ業界のさらなる発展を祈って。――

2009年5月24日日曜日

松智洋『迷い猫オーバーラン!拾ってなんていってないんだからね!!』


 まるでジャンクフードだ。ネットでの評価が高かったり低かったりが激しいので興味をもって読んでみたのだけれど、やっぱり面白くなかったというか、まあ人によっては面白いんだろうけれど、あくまでライトノベル的な登場人物を適当に配置して上辺だけ飾った中身のない物語。一本筋が通っていなくて、ひとつの話に要素を詰め込みすぎている。途中まではチープな挿話が主役であり、本筋は影響しない。筋と関わりのない挿話と配役が動き回り、雑駁な内容になってしまっている。文字数も少ないので、巧くまとめるか、さもなければアイデアを捻出しなければならないが、一切そういったことがなされていないので稚拙なプロットという印象は拭えない。
 あとツッコミ。演算による解は真であるが、帰納による解は真であるとは限らない……ってこれ読んだ人しかわからないな。

アリストテレース『詩学』・ホラーティウス『詩論』(松本仁助・岡道男訳)


 『詩学』は、基本的にはアリストテレースの理論的立場からおこなわれた文学論である。それは、ギリシア悲劇にとって抜きがたい要素である神(運命、偶然)の働きをほとんど無視し、またコロスが俳優と同じく「行為する者」となることを要求するところからも明らかなように、ギリシア悲劇の総合的理解に導くものでは決してない。しかし一方では、詩(文学)の本質を人間の行為の再現のなかに見いだし、実際の劇作品のなかの人間の行為そのものに新しい光を当てることによって、悲劇、ひいては詩(文学)の構造と機能をより確実に把握することを可能にした。この意味において、『詩学』における悲劇の構造分析は、ギリシア文学の研究者にとってのみならず、近代・現代の文学の研究者にとっても多くの貴重な示唆をあたえるものとなっている。『詩学』は、神・運命あるいは道徳観などの、ギリシア文学の伝統的要素を捨象することによって、文学理論としての普遍性を獲得したのである。

 解説から読んだ方が無難。個人的に文学・演劇評論に対する知識が不足しているので特に内容に対して意見はないが、古いもので、かつ散逸している部分もあるのでわかりやすい文章というものではなかった。『詩学』、『詩論』とも体系として完成された文章ではない。ついでにアプローチも違っていて、それぞれに違う理想を語る。
 この分野の勉強は今後も継続していくつもり。守破離とか言うように、ぼくは少なくとも舞台・演劇からマンガまで包摂する美術の分野においては、まず基礎をガチガチに固めるのが大切だと思ってる。美術や音楽はどうしても物語というものと関係を断ち切れずに、物語性を持ち続けるものだと思っているので、文学の分野でも勉強は必要になるんじゃないかなあ、とか。

2009年5月3日日曜日

グレッグ・イーガン『しあわせの理由』(山岸真訳)


 イーガン短編集。生理的欲求にうち勝つ理性というのがいくつかの短編では見られて、直前に読んだ『国家』とも少しリンクした(こうゆうのはよくある)。科学技術によって身体にアクセスできるようになったからこそ起こる身体の生理的反応、それを抑制できるほどには万能でない科学。そこで子どもではないが子どもに感じられるようなものを自分の中に宿した女や、あらゆるもののプライオリティを自分の意志で設定できる男は、現実的な問題を解決するために程度の差はあれ、本来の自分を放棄するが、それはわれわれが日頃から行っている自然な選択と大して変わらない。ではなぜそこで彼らはその選択をスムーズに受容しないかというと、それまでの生活では考えられない文化との摩擦が起こるからである。つまり自分が自分であるという人間本来であれば突き当たると思われているアイデンティティ問題は生命と同じように環境に依存したもので、自然淘汰によって常識は覆されるものなのである。ある社会的なミームが滅びて、別のミームが生まれる経過の要点をとらえた小説ともいえる。そんな意識に揺れる中で、自分の生きる指針に信念をもってるのはかっこいいし(やさしいイーガン)、信念をもってないと自分の自信のなさだけを証明することになってしまう(きびしいイーガン)。これらの教訓的なことは『適切な愛』、『道徳的ウイルス学者』、『移送夢』、『ボーダー・ガード』、『しあわせの理由』などに見られる。
 いくつかの書評や解説について。イーガンのSFのガジェットの使い方については、非常に入り組んでいて難解で、それがむしろ面白さになっていることは有名であり、その点についてはまったく否定しないけれど、それ――つまりアイデアが――がイーガンの独自性かというとそこは疑問。それだけなら他の作家にもできるんじゃないか。SFマインド(科学的考察)というのは重要だけれど、それはハリウッド映画で使われる戦闘機が実物かレプリカかという程度の差しかない。さらにいえば自意識の問題なんてものもSFに留まらず多くのジャンルで取り組まれているテーマであり、それ自体をイーガンの特徴であると言われてしまうのは非常に不満が残る。たぶんそれが作品にどう使われているかが問題で、今回の短編集で言えば、登場人物がなにをどうやって理解(了解)したかが重要なんだろう、とかいくつかの書評を読んで思ったりも。まあ、別に作家の独自性なんてものを無理に語る必要はないんだろう。