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2009年4月26日日曜日

ロクな携帯電話が売ってない

 携帯電話の端末を交換したいが、どうにも困っている。今、スマートフォンを含めて店頭で手に入るものには納得できる機種がない。とはいえ、細部に要望があるわけではない。ぼくが求めているのはいくつかの機能と基本的なものだけだ。それは次のようなものである。GPS、Bluetooth、赤外線通信、フルブラウザ、無線LANの5つの機能。あとは普通にモッサリしてなくて操作性がマトモな形状のものが欲しい。
 docomoのBlackBerry Boldが惜しい。赤外線の他は全ての機能が載っていて、スマホにしてはそれなりに操作しやすいデザイン。でもやっぱり赤外線が付いてないのは面倒だし、より贅沢を言えばHTC Touch Dualのような形状のものが最良だ。というか片手操作できない携帯電話って……
 最近は二台持ちしてる人が昔以上に増えた気がするけど、なんだか理由がわかるような気がする。ぼくのこの僅かな要望に答えることのできない日本の携帯電話会社。これは完全な商品も作れるのに、故意にそれはせずに二台所有するように働きかけているのでは、なんてありえない疑心に駆られてしまいかける。初夏あたりまでに納得できる製品が出ればいいんだけれど、期待できそうにない。

追記:
(メモ)ソフトバンクは大規模通信障害が起こるなど、システム的に不安定さが目立つ。海外からの製品取り入れ状況を考えてdocomoにした方がいいのかもしれない。

2009年4月24日金曜日

プラトン『国家』(藤沢令夫訳)

国家〈上〉
プラトン
岩波書店 ( 1979-01 )
ISBN: 9784003360170

国家〈下〉
プラトン
岩波書店 ( 1979-01 )
ISBN: 9784003360187

 この前三七五年ごろにプラトンが書いたものの内容は要するに「善いことをしなくてはならない。また、善いこととは何かを知らなくてはならない。そして徳を積めば幸福に生きられる。」(勉強して、悪いコトはすんなよ)であり、この知らなくてはならないこと(善さ)も結局はプラトンが受けた教育に影響されたものだし、文章も面倒な会話をくどくど書き連ねているばかりで、現代的な感性を持っていると自覚しているぼくは、いくら名著だと言われていてもひどいものだと思った(でもSMAPの草彅全裸事件があったので少し納得はした)が、訳者の解説や補注は丁寧で、かなり興味深いものになってる。藤沢令夫という人物には注目すべきなのかもしれない。
 問題は詩文や美術(ミメーシス=写像)に関するプラトンの糾弾で、要するにパトスに作用するような感情的なもの(引用"感情をたかぶらせる性格" 602C~608B)はロゴス(人間の理性=善いもの)を押しのけてしまうので低劣であるという。現代風に言えば「厨二病患者を量産する作品は排除すべきである」だろうか。この点の解釈方法は二通り。これを芸術(特に大衆芸術)に対する無理解、あるいは歴史的なものによる認識の差異としてプラトンの言論に真っ向から反対の立場を取るのがひとつ。もう一つは、低劣な作品が多いことも認め、警告と捉えるか。ぼくは二つとも採用しよう。短絡的な感情をたかぶらせるものでも、そのなかにダイナミズムだとか品格を有するものもある。例え作品自体が連鎖的に熟慮することを訴えない性質のものだとしてもかまわない。もはや時代は21世紀であり、紀元前のこの不確かな哲学を無理に押し嵌めることはできないと思った方が自然だ。歴史的問題点はプラトンの時代では詩は単なる物語ではなく、人生の教科書――道徳を説くものであり百科事典でもある――でもあったということである。そういった背景があるのならば、厳格な品性を詩に求めるのは仕方のないことだ。しかしそのような読み方がなくなりはせずとも、かなり希薄になった現在では、その厳格さは作品と生活を分離できない無教養な人間の言論だとし、その上で軽薄なものを糾弾するプラトンの言論の一部に同意する。"音楽、文芸においてしかるべき正しい教育を与えられた者は、欠陥のあるもの、美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も敏感に感知して、かくてそれを正統に嫌悪しつつ"(401E~402A)、しかし創作には原則的に自由を認めるべきである、と。
 重要な箇所はもう一つ。いわゆるイデア論。イデアとミメーシスという単語だけは知っておきたいところ。596Aあたりから参照。597Aの大工が作る寝椅子の文章がわかりやすい。"彼は〈実相〉を――これをわれわれは〈まさに寝椅子であるところのもの〉と言うわけだが、その〈実相〉を――作るのではなくて、ある特定の寝椅子を作るのである"。ここでの〈実相〉がエイドスだったりイデアだったりする。そして特定の寝椅子というのが写像、つまりミメーシスとか言われているもののようだ。イデアとは神の作りだした概念であり、真実に最も近いもので、これは知性によってのみ思惟される。職人はそれを感覚によってとらえて現実に作り出す。画家は真実からより離れる。画家が見ているものは職人が感覚によって作りだした写像で、それをさらに模倣するのである。……正直なところ、まったく面倒な思想を展開してくれたもんだとも思ったりしてる。そしてイデア論の捉え方も実際的ではない。職人だって他の職人が作りだしたものを見て作るわけだから真実から第三番目にあるものではないだろうか。そしてそういった不毛な揚げ足取りをせずとも根本的に問題がある。このイデア論的思想というかプラトンの思想というのは最終第一〇巻でも語られているとおり、人間の一生を短いものであるのに比べて、魂の一生は長大(永遠)であるので、真実を求める魂を保持せよというソクラテスから続く傾向が見られる。既に随伴現象説がメジャーなものとなった現在では、これはむしろ現実から離れた、思考の中だけの論理、ある種の現実逃避に陥っているように思えるのだ。形而上学的な事柄に大してプラトニックになりすぎなのも、まあプラトンの善さなんだろうけれども。

2009年4月15日水曜日

Theo Jansen Project Japan

  テオ・ヤンセンの展示会には行ってたが、いつも通りブログに書くまでタイムラグがあり、会期が終わってからエントリーを投稿するというダメっぷり。はしもとさんのmixi日記を見るに、「テオってきた」というのが正しいらしい。あたい、もうじゅうぶんテオってきたんだよ……エッチです!
 これらの作品は言ってしまえばごっこ遊びではあるのだけれど、ここまで完成度が高ければ遊びでも文句のつけようはない。展示会場は博物館で生物の標本を見ているようでもあり、玩具の展示会のようでもある不思議な空間になっていた。ただぼくは、もともとWIREDの記事でヤンセンを知ったので、どちらかというとそこで紹介されていたBMWのCMのように、静かにではあるけど確実に動くような、展示会で見たものより生物的な作品がヤンセンのキネティック・スカルプチャーだという思い込みがあったので、少し理想とのギャップがあったというのが正直なところ。そういえば学生の頃に見た平川紀道のGROBAL BEARINGとかもそうだったんだけど、ぼくは事前の期待をしすぎているような気がする。完全なプレゼンテーションを求めてるけど、もちろん事前に編集された映像でもなければそんなことは難しいわけで。


これは人力で動かせるもの。屋外で風があれば風力で歩く。


一六メートルほどある新作。少しぎこちない動きだった。

 展示会といえば翼竜展(すごい前の話)なんかも行っていたけれど、ブログ記事は書かずじまいだった。めんどくさいので今から書こうなんて思ってないけど。
Quetzalcoatlus

2009年4月9日木曜日

公野櫻子『Baby Princess』一巻


 悪態をついた麗に春風が「あら?麗ちゃん、何か言ったかしら?」お願い、麗を殺さないで!(麗は本当に自分から死亡フラグを立てるよなあ……)

 新しい角度でトゥルー家族に光を向けたことについては評価されるのだろうが、これを正史と認めるのには抵抗があるのではなだろうか。小説としてはかなりつまらないものだけれど、おそらく『Baby Princess』本来のサブジェクトは物語の中にはない。物語体系というものが、そもそも『ベビプリ』というコンテンツの中では重要な地位を領せていないのである。ぼくはどうしてこのプロジェクトが、ブログで休みなく丁寧に綴られているのかわからなかったが、今では小説と比較して、その日記風手記形式がこのトゥルー家族を存在させるために適切な手法だったことが理解できた。そこで彼女たちの輻輳する言葉を丁寧に傾聴するのならば、自然とゲシュタルトは構築されるのである。この小説で物語体系を新たに構築する際に、実在の男性を加えたとき、それは明かな異物として認識され、既にそこには、ぼくが憧憬の眼差しで見ていたトゥルー家族は存在しえない。抽象的・間接的に表現されることで彼女たちの中に男(それか自分自身)は存在を許容されうる。姉であり、妹であり、或いはまた娘である彼女たちの障碍は本来掩蔽されてしかるべきなのだ。鏡がなければ自分の顔が見えないのと似ている。

2009年4月8日水曜日

テッド・チャン『あなたの人生の物語』(朝倉久志、他訳)


「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『発見した形式的体系では、いかなる数も任意の数に等しいという答えが出た』
な… 何を言ってるのか わからねーと思うが おれも何をされたのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
虚数の解法だとかミクロ世界の量子の乱れだとか そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
数学は自己撞着だということを味わったぜ…」
(収録作品『ゼロで割る』)

 テッド・チャンの短編集。正直言ってこの本を語るには、あまりに教養が足りていないことを痛感しているところ。
 作品の殆どがスペキュレイティヴ(この単語は恥ずかしい)でそっちの意味でSFだと感じる。SFをカテゴライズする方法はいくつかあるけれど、例えば三つに別けるとするなら<エンターテイメント SF>、<古い思弁的SF>、<新しい思弁的SF>という見方が可能だと思う。そしてその中で、読者に対して衝撃を与えてくるのは大抵の場合、<新しい思弁的SF>……その先端をゆく作家の一人がテッド・チャンなのではないだろうか。その短編はどれもすごく良かったが、気軽に面白かったとは言えないような。読み終わった後に何となく他の小説を手に取る気にならなくて、プラトン読んでる。あ、そうか、これって洗脳小説だ!"わたしはその“ことば”を、そしてそれによって操作される意味を了解し、かくしてわたしは崩壊する。"とも作中にあったことだし(多分違います)。よく並んで名前が出るイーガンと比較してみると、俄然読み易いのでオススメ。
 ロジックとプロットが当たり前のように組み合わされている表題作の『あなたの人生の物語』のストーリィが特にいい。母から娘へ、というのはあまりに感動的で卑怯な題材だが、この作家の場合はそれでは終わらなかった。短いのに、思索と論理と感動と娯楽とか、いろんなものが詰まっていると思う。

2009年4月2日木曜日

三月二九日のできごと:『神曲奏界ポリフォニカ クリムゾン S』先行上映会、キャラクターのディティールについて



 虎ノ門までのちょっとしたポタリング。当選するわけがないと思いつつも応募した『神曲奏界ポリフォニカ クリムゾン S』の先行上映会の抽選で選ばれてしまったので、その会場まで行ってきた。第一話上映前にあったeufoniusのライブ演奏、戸松遥・浅沼晋太の二人トークと戸松遥によるEDテーマのお披露目なんかは特にこれと言った感想もないので省略する。強いて言えば浅沼晋太はトークの運びが軽妙で、人を引き立てるのが上手い。感心、憧れるといったような気持ちがわき起こった、くらいか。しかしそのあたりの感想を書かないとなると、普通に考えれば一話の感想なんかを認めるわけだが、ぼくはいたずらにチラシの裏的感想をネット上に公開するまでに自信家でもないし厚顔無恥でもない。作画なんかはDVDリリースされるときにリテイクされて変わることもある(少なくともヒロインの裸体を隠していた撮影段階で入れられたハレーションは間違いなくなくなる)し、ちょっとした感想なんてものは放送時に2ちゃんねるやらふたばの実況で刹那的に語らえばいい(例えば「コーティカルテの着替えを手伝ってあげたいです。朝ご飯食べさせてあげたいです」とかそんなぼくの本音。朝ご飯作ってあげたりとか、あれって恋愛対象というか娘みたいな感じだ)わけであり、更に言及する気があるというのなら放送後に見返して、ある程度確信を得てからにすべきだと思っている。というか席が悪くてよく見えなかったし、モニタも16:9なのに4:3映像をフル表示にしてたからアスペクト比くるってたりで、そもそもがロクな状態で観られなかったとか色々あるのだが、それではここでは何一つとして『クリムゾン S』に関することがらを述べないのかというとそうではなく、本作品のキャラクターデザイン、というかキャラクターの外観のディティールについて気になったことを考えてみることにする。でもこれって原作担当の神無月昇の話になってくるのではという突っ込みは……まあ許してほしい。
 学園が多くの場面で舞台となり、殆どの人物が同じ服装になり、首から下は細かなデザインやバリューの差でしか描き分けられないであろう今作において、結果としてキャラクターを特定個人たらしめる大きな要素は頭髪のデザインである。そこで主人公フォロンの周囲を取り巻くことになるのではないかと思われる少女、すなわちコーティカルテ、ペルセルテ、プリネシカの三人を瞥見してみて、その類似性が面白いし、同時に称揚されるべき優れたものだと感じた。この三人、エピゴーネン的とも言えるようなよくあるディティールで構成されていて、かつ分かりやすいくらいに基礎部分がまずあり、それに追加部分を加えた形状であることが見てとれる。パーツ分割方式で形状を決定するのは(たとえ描く者が無自覚だとしても)珍しくないどころか、当然の手段ではあるが、これほど人工的(?)に見えるまでにデザインされているのは珍しいような気がする。また、女生徒の制服も一見して独自性に欠けているかのようなデザインである。そうであるのにも関わらず、ヴィジュアルとキャラクターのプロフィールがすぐに結びついて記憶に残り、かつ一部分を見るだけでも何となく誰かはわかる。これはつまり、それぞれのパーツが最も適切な場所に添えられているからこそである。色彩にも、そのデザインの優秀さは担われるが、ここでは形状の簡略さが最も注目されるべきだ。悪い例から入った方がわかりやすいかもしれない。これはぼくの友人の話だが、彼は『SHUFFLE!』の登場人物を観ても誰が誰だか覚えられないと言う。ここでその作品の登場人物を見てみると確かに半分以上がヴィジュアルとプロフィールを結びつかせる鎹がないように思えるのは事実である。また、ネリネとプリムラは未だしも、それぞれの外観を思い出そうとしても、なかなか像を結ばない。これは髪型が『クリムゾン S』と比べると細やかで凝ったものであるからではないだろうか。反面、『クリムゾン S』のキャラクターデザインは簡略化と類型化されたが故の強さを持ち、その印象は各キャラクター固有のものとして、薄れることなく滑らかに導かれ結びつく。これによりヴィジュアルによる独自性を放棄しても、設定(物語)があるならばそれは欠点にならないし、さらに既に存在しうるものの原形を色濃く残すものは大衆に受け容れられやすく、かつ記憶してもらえるという安定感を保持するので、群衆劇のエンタテイメントを作る上ではむしろ有効な手段であるのではないかとぼくは思い至ることになった。

神曲奏界ポリフォニカ クリムゾンS 先行上映会スペシャルイベント