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2009年3月31日火曜日

ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(池央耿訳)


月面調査員が、真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。綿密な調査の結果、この死体はなんと死後5万年を経過していることが判明する。果たして現生人類とのつながりは、いかなるものなのか?

つまり有史以前に人類は・・... - キバヤシ断言 - はてなセリフ
「な、なんだってー!」

 この小説は理屈っぽいとか言われるが、その指摘は正しい。そしてそれが楽しい。地球外に存在した知性体の痕跡という巨大な謎に驚愕しながらも専門家たちが、ああでもないこうでもないと仮説を打ち立て、更なる新事実がその仮説を打ち崩し、その新事実を糧にまた新たな研究に取り組み……というドキュメンタリー調のエンタメ小説、ってこれやっぱり『MMR』にしか聞こえない。
 雰囲気も明るく活気があり、それはこの小説が書かれた時期(一九七七年)が良かったんだろうけれど、現代の我々が夢に見る科学進歩が綴られているところに起因するのかもしれない。惑星間航行技術をはじめとして、その他細かい部分で未来的な情景を伝えるために、「単純に」予測可能な世界が画かれている。これは例えば、今やデッドメディアのビデオテープがDVDにその座を譲らずに、より高性能化された状態で我々の知る概念を保っているということだ。パラダイムシフトが起こらない。高度に発達した技術(それか、それに代わるもの)によって、「わたしはわたしである。他人ではない」という意味を喪失する種類のSFというものが多い中、そういった不安感を与えない明るい見通しが、この作品が長年エンタテイメントとして嗜まれる、ひとつの要素なのではないだろうか。だからこそ読者は、なかなか確実な進展を成さない学者たちの理論にも不満を感じることなく、むしろ学者視点に相乗りして興奮を味わうことができる。そして、最後までやっぱり人間賛歌な物語だった。印象的だった部分を引用して終わりにする。二三二頁、主人公のハントがガニメデに立っているときのことである。ここで彼は、自己以外の不確かさ(非「えいえんの世界」的な)を語ることによって、反対にテクスト外で自己のみを確かなものとして感じている。
ハントは、現実とは相対的な<量>であると考えるようになった。時を経てふたたびそこに立ち帰っても以前と変わらない、絶対的なものではない。今、彼にとって唯一の現実は宇宙船である。一時的ではあるにせよ、彼が背後に残して来たものは非存在と化したのだ。

2009年3月28日土曜日

アーサー・C・クラーク『都市と星』(山高昭訳)


 かつて侵略者に蹂躙された地球に唯一残ったとされているアーコロジー、ダイアスパーでは、その外壁の向こう側にある世界には一切の興味を抱かず、科学的進化を遂げた人類は都市内で長い一生を過ごし、そして一生の終わりには記憶バンクに入り、そこで新しい人物として再生されることをただ繰り返していた。この常識に馴染めず、都市の外を知ることに憧憬するユニーク、アルヴィンを主人公とした冒険小説。
 この作品は、同じく遠未来冒険物語であるオールディスの『地球の長い午後』で感じたグロテスクな表現は一切感じない小綺麗なものだった。つまり両著作間の違い(両者の違いを書けるといいんだけど、そんなに読んでない)というのはいくつもあるが、ことぼくが個人的に感じたことに於いてはおそらく、クラークの『都市と星』では登場人物の感覚を通して観察され書き下される事象は、極端に微細な部分までは表現されず、感覚を伴いにくいが、その鈍さが作品世界と読者を程よい安全な距離関係に置くことにあると思う。また我々が持つ普遍的な倫理観を、それが遠い未来の人物だとしても、あるいは異種知性体だとしても備えていることも重要かと考える。もっとも『地球の長い午後』では人類は知性体として衰弱しており、もはや倫理観うんぬんよりも、本能による即物的行動が生死を分ける状態なので、寿命も病気も克服する科学的進化を遂げた人類と比べることに大した意味はないかもしれないが、それでもその精神的余裕が読者をスムーズに作品世界へ滑り込ませて、主人公と共に未知の世界に興味を持たせるために上手く働いているのではないだろうか。それから男女の物語ではなく、男同士の友情、というか非異性的な物語というのもなかなか重要な箇所で、そういった構成にすることによって男女の物語にある虚偽的なディスコミュニケーションストーリイが展開されることなく、比較的気持ちの良い主張・存在の違いによるキャラクターの交差というものが画かれているのも気にすべきなのかもしれない。でも気にしなくても愉しめるんでやっぱりそんな必要はないかもしれない。

2009年3月27日金曜日

長谷敏司『円環少女』


 サスペンスとロジックのアンバランスな板挟みに陥ってしまったというところだろうか。クライマックスはなかなかよくできていて感心したし、小学生魔法少女メイゼルは可愛らしかったけれど、ぼくにとっては彼女の愛らしさ以外がかなりどうでもいいように感じてしまい、話の続きに興味が沸かないくらい相性が悪かった。しかし、たまにラノベで怒りたくなるくらい適当なプロット、あるいはテクストというものがあるが、そうゆうものでもなくて良くできていて、纏まりのあるモダンジャパニーズファンタジイ(このジャンル名は適当に書いた)。
 後述するように、物理法則すら我々の宇宙とは異なる無数の魔法世界というかなり大きな風呂敷を広げてしまったのは、多くの読者の混乱をきたす原因の一つではないかとも感じる。無数の世界というとSF的要素ではあり、そのジャンルの場合はある程度の説得力を持たせるために論理展開が必要になるが、この作品に於いては「魔法」というファンタジイを前面に出すことによって押し切ってしまった。しかし、それでも尚独特の論理を作中でくり返して読者へ提示するために矛盾を感じたのは残念である。というかここを気持ちよく感じれば『円環少女』に嵌ったも同然なのかも。ニュアンス的には魔剣道場。いや、違うな、すいません。
 また、これはシリーズの一作目で追求するのには厳しい点かもしれないが、シリーズタイトルに『円環少女』という意味深な名前を表しているのにもかかわらず、作中ではメイゼルが用いる魔法の種類が「円環体系」という単純な設定要素*1でしか体現されず、特有のテーマとして読み取れないのもカッコイイ名前(「サークリットガール」とか書いてある。カッチョイイ!)だけに気になってしまったところだった。サブタイトル「バベル再臨」の名の通りに、作中で過去の再現とされる魔法空間バブ・イル(バベル)再演を円環の一部と見なすことは無理矢理ながらできるかもしれないが、そこからのいわば脱出と破壊が主役人物の目的であり、比較的容易にそれが成し遂げられてしまった以上、それを「円環」の要素と捉えることは無理があるだろう。
 大量の登場人物を描写することも、キイキャラクター――円環少女=メイゼルとあるいはもう一人の少女きずな――の魅力を結果的にスポイルすることになってしまったようにも(ごく個人的に)思える。とはいえ、単純な消費的キャラクターメディアとしてのよくある既製品じみた受けのいいラノベよりも、このような独自の世界観構築は非常に真面目であり、そういった観点では好感を持てる作品だった。

*1, 本文p16
 魔法使いのいる世界には、必ず一種類の魔法体系がある。メイゼルの世界では、振動や回転のように周期のある運動や自然現象が安定しない。揺れるブランコは勝手に高くはねあがって危険だし、回る車輪が理由なく止まるのもしょっちゅうだ。もろい自然は、観測者たる人間がどう見るかで変動する。そんな歪みにつけこんで、周期運動するものに《魔力》を見出す方法とそれを支配する魔術、円環体系は練り上げられた。

2009年3月22日日曜日

伊藤計劃『ハーモニー』


「一緒に死のう、この世界に抵抗するために」――御冷ミァハは言い、みっつの白い錠剤を差し出した。21世紀後半、<大災禍>と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は医療経済を核にした福祉厚生社会を実現していた。誰もが互いのことを気遣い、親身に“しなければならない”ユートピア。体内を常時観察する医療分子により病気はほぼ消滅し、人々は健康を第一とする価値観による社会を形成したのだ。そんな優しさと倫理が真綿で首を絞めるような世界に抵抗するため、3人の少女は餓死することを選択した――。それから13年後、医療社会に襲いかかった未曾有の危機に、かつて自殺を試みて死ねなかった少女、現在は世界保健機構の生命観察機関に所属する霧慧トァンは、あのときの自殺を試みてただ一人死んだはずの友人の影を見る。

 思ってたより読み易いし面白いし解りやすい。『ディファレンス・エンジン』のエッセイで勝手に「伊藤計劃ヤバイ、何書いてあるのかわからない。円城塔もヤバイ」とか怯えていたが杞憂に。けっこう気軽に読めるSFなんじゃないだろうか。ギミック、ネタ、テーマは昔ながらのものだけど、それを今風の代替品を見つけ出して気持ちよく配列し直した。自発的幼年期終了のお知らせ。ちなみに著者のブログで書かれていたとおりに『ファイト・クラブ』(「女版タイラー」みたいに書いてあったと思う)という表現はあったけれど、百合は違うんじゃないか……。
 どかんと一発、力強い衝撃を与えるような内容ではなかったけれど、特に難解すぎず程々に説得力がある設定や理論展開が軽やか。『ファイト・クラブ』でもそうなんだけれど、ぼくはモラリスト然としている心理描写よりこうゆう生々しいのが好みだ。人物の内面も、動作や外見ですら、精密に書かれているわけではないけれど、それでも充分等身大の人間に見える。だから結末も大好きで、なおかつ納得してしまう。早くこんな社会が来ないだろうか。
 表紙は意外と空気読んでる。この表紙イラストは途中までは関係ないのでは、という感じもするけれど、物語の最期で漸くしっくりきた。ちなみに伊藤計劃スレ情報では"ツインテパツ金の子がミァハ ロングがトァン"らしい。
 以下ネタバレというか読んだ人にしか通じないであろう覚え書き。少し突っ込みどころがあるラストだった。いや、上記で納得したって書いたけど気持ち的には納得だけれど、事象を考えれば突っ込めるということ。WatchMeを入れている人々は調和を取るが、入れていない生活圏の人や未成年の子たちはどうなるんだろうか。ミァハたちが自殺を試みた年代だってWatchMeは入っていなかったのだし。

 追記:この記事を書いた数時間後、伊藤計劃本人が亡くなられた。本を通じてだが、あまりに短い付き合いだった。そろそろ退院して、長編も短編も書くものだと楽観的に考えていた。哀悼の意を表することは容易だけれど、『ハーモニー』を読み終えたばかりなのに、そんなことをするのは、むしろ気が咎める。作家の死という事柄を受け止めるのは容易ではない。「残念」という言葉は、ぼくが口にしてもより親密な人たちの悲しみと比べものにならないだろう。ということで伊藤計劃流に書こう。伊藤先生、ぼくに物語を授けてくださってありがとうございました。あとブログもおもしろかったです。

ネビル・シュート『渚にて』(井上勇訳)


第3次大戦が勃発した。ソ連と北大西洋条約諸国の交戦派ひきつづいてソ中戦争へと発展し、4千7百個以上の水爆とコバルト爆弾が炸裂した。戦争は短期間に終結した。しかし濃密な放射能が北半球をおおい、それに汚染された諸国は、つぎつぎに死滅していった。その頃、かろうじて生き残ったアメリカの原子力潜水艦スコーピオン号は、放射能帯を避けてメルボルンに避難してきた。オーストラリアはまだ無事だった。しかし、おそるべき放射能は刻々と南下し、人類最後の日が迫っていた。

という状況でオーストラリアにいる数人の人物を淡々と描写した小説。SF的な要素やプロット上での盛り上がりなんかがなく、諦念からか現実逃避をしているのか妙に冷静でモラリストばかりなのが『終末の過ごし方 -The world is drawing to an W/end-』的。それだけにヒューマンドラマとしてしっかり書かれていて、文章も読みやすいので面白い、なんとなくお手本みたいに感じる。発表当時は核兵器に対するモラル・フェーブルみたいな意味をも含んでたんだろうけれど(とゆうようなことが解説に書いてあった)、そんな余計な事は無粋だし、それ抜きで読んだ方が面白い。というか日本人として日本で教育されると核兵器の恐ろしさは充分わかったからもう黙っていてくれってなってしまうし。ちなみに四月から新訳版が出版されるらしい。あんまり読み返しを促すようなものじゃないからそっちは読むアテがないなあ。

土橋真二郎『ラプンツェルの翼』


 「ある日突然出会う少女は闘いが義務付けられていて、主人公は偶然彼女のパートナーになり、最後の一組になるまで他のユニットとのバトルロイヤルを生き抜く」というオタク系サブカル文化に身をおけば確実にどこかで聞いたことある使い古された典型的なアウトラインを土橋真二郎がはじめて起用した記念すべき作品。最も優れた処女作『扉の外』から表題を変える度に、どんどんラノベ的な零落が進んでる気がしないでもない。本職で忙しくなってしまったのであろう堀口悠紀子がイラストを勤めていないのも残念。いろいろ文句からはじまってしまったが今作も十分な鋭さがあったし、『ツァラトゥストラへの階段』よりも纏まりがある。そんじょそこらのラノベじゃこの読後感は難しい。基本的に冷酷な選択こそが生存の正解というのも土橋小説ではおなじみのテーマだけど、そこまでの過程で充分足場を固めていれば最悪の事態が回避しえるかも、みたいな感じが今回ある。今までのシリーズと似たような設定・人物で話が展開されるけれど、シリーズものとして外堀を埋めてる最中なんだろうか。とはいえもうちょっと別のパターンで驚かせてくれないとサスペンス系小説家としては危ないんじゃないかとも。

2009年3月21日土曜日

三月二十日のできごと:蒲田で開催されたオンリーイベント

 クラーク御大の一周忌が明けた二十日には蒲田で開催されたオンリーイベント(同人誌即売会)に行ってきたので、その時の日記と友人間の会話内容が今回の日記内容(珍しく「日記」的だ!)。蒲田で即売会と言えば、それはもう99%以上の見込みで大田区産業プラザPiOという場所で開催されるもので、今回もそこでそれぞれ『リトバス』、『FORTUNE ARTERIAL』、『アイマス』、『アイマス』の春香オンリー・やよいオンリーが開催されていた。雨もすっかりあがって気持ちよく晴れた正午に、ぼくは一時間ちょっと電車に揺られ、春香オンリーに出展する友人のSi氏に会いに行ったのだけれど、コミケでは忙しくてなかなか買いに行けないthen-d氏が『リトバス』オンリーに出展するというので先にそこへ行きブースにあった本を全て買ってきた。主にkey周辺作品に対する数少ない優れた論評が書かれた本で、こうゆうの大好きな自分としては、その厚み(一番厚いのがオフセット四二七頁)にうっとりしてしまう。その後は友人のところへ直行して昨今のアニメ事情について語るままイベント閉会を迎えた。即売会自体はそんなに謳歌したわけじゃないけれど、その日は他のところで大きいイベントであるTAFが開催されていたにも関わらず人は多く、活気があり久々に出向いたオンリーイベント(とゆーかコミケ以外に即売会にはあんまり行かなくなっている)はまだまだ受容があることが伺えて、なんだか嬉しい。『アイマス』はともかく『リトバス』と『FORTUNE ARTERIAL』なんて売れる同人を出すというモーティヴであるなら作らないものだから余計にそう感じるのかも。いや、売ろうとする気質は否定しないけれど、なおかつ「プライベートで好きなモノを書いている」という同人独特の言い訳が展開されるのはぼくは好ましいと思っていないので。爽やかなところから雲行きが怪しくなってきたので舵を戻そう。まあ、そんなわけで珍しく即売会自体心地よい気持ちで過ごせた良い休日だったので友人には本をくれたことも含めて感謝しなくてはならない(夕方から仕事したけどな!)。帰り際に会場付近の駐車場に駐めてあるキャラクターラインもホイールアーチも無視して(このへんに痛車への軽蔑を込めている)ステッカーが貼り付けられた八月痛車を見ていた将来有望な幼い少年がいて、彼の父親に「お姉さんがいっぱいだね」と言われていたのを横目で眺めつつも知らないふりをして通り過ぎた自分に罪悪感を残さないでもないが。多分そこで正解だと思われる発言は「エステルはみんなの嫁だから、独り占めしようとしても無駄だよ」だったのではないだろうか。

 以下は友人間の会話で話題に出たものの記録と詳細。
 『prismaticallization』はゲームアーカイブスで販売中の旧作。wikipediaにも書かれている通り、かなり変則的なゲームで、軽い気持ちで勧めてしまったけど、拒否反応が出る可能性は高い。ちなみに一〇〇周なんてのはそうそうないけれど、ぼくはメモを取りつつ五〇周くらいはした。

 SF入門書として『夏への扉』を渡されたSe氏へ。グレッグ・イーガン『順列都市』をお勧めしたけれど、これは『prismaticallization』以上に拒否反応が出る可能性が高いのでいきなり読むのは止めた方がいい。『順列都市』という表題のヤバさを美味しそうと思うなら突撃してもいいかもしれない。迷ったら「ディアスポラ数理研」の人のレビューへGO。『夏への扉』は決して悪くないと思うんだけれど、時代の流れでやや古い部分もあり、SFマインドが溢れてる作品ではないのが少し気に掛かる。ぼくならアーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』か土橋真二郎『扉の外』(関連日記)――これはSF的かは怪しいけど――を推す。あと好きなブロガーが入門に最適と書いていたのは小川一水『フリーランチの時代』。この人はかなりのSF読みだし、ぼくなんかよりよっぽど信頼性が高く、そしてぼくとしてもこの本は読みたいくらい。表紙ははしもとさんでこの人もSF好き(ですよね?>はしもとさん)なので打ち合わせとかで濃い話してるんだろうなーとか妄想せざるをえない。

 エロゲ入門作の話もしていたので、それらはErogamescopeにおいて七〇点以上の点数を付けたものから何点かピックアップ。『恋する乙女と守護の楯』(関連日記)、『神樹の館』(関連日記)、『蒼天のセレナリア -What a beautiful world-』 / 『赫炎のインガノック - what a beautiful people -』 / 『漆黒のシャルノス -What a beautiful tomorrow-』、『forest』(関連日記)、『白詰草話 -Episode of the Clovers-』。そこそこ新しいものから選んでいる。そして、大して上手いと言えない絵が未だに闊歩するエロゲー業界だけれど、その中にあってレベルが高いものを集めたので絵描き的にも安心できるものだと思う。『神樹の館』だけはちょっと……って出来だけど、まあ文章を読むのに抵抗が出てくるようなものでもない。
 話を戻して順番に説明していく。この中で最も典型的なエロゲーは『恋する乙女と守護の楯』で、これはいわゆるキャラゲー。ラインナップを見てもらってもわかる通り、キャラゲーをあまり嗜まないぼくをしても「説子さん最高だよ!」と言わしめるだけに充分な純度のあるキャラゲーであり、つまりエロゲー業界がどうしょうもないオタク狙いの作品を九〇年代からせっせと作り続けてきた結果として、異様に面白くなってしまった素晴らしきどうしょうもなさが純化、抽出されたエネルギーを含み持つのがこの作品だと思っている。AXLというレーベルのゲームで、今ぼくはそこが制作した『Proncess Frontier』というゲームを牛歩プレイ中。こちらもなかなかキャラゲーとしてまとまりがあるので、候補に入れてもいいかもしれない。ちなみにAXLのゲームはffdshowでmpeg2コーデックの設定をいじっているとOPムービーの時点でゲームアプリケーションの反応がなくなる不具合があるから、もしそれらを使っていれば設定の変更が必要になる。
 Liar Soft――通称「嘘屋」――からは『セレナリア』~『シャルノス』まで桜井光脚本のスチームパンクシリーズ(サイバーパンクも混じってる。これらはどれからプレイしても問題ないと思う。ぼくは『インガノック』だけプレイ済みだが、地続きな作品ということで他の二作も候補作とした)と星空めてお脚本の『forest』の四作を候補に挙げた。嘘屋のこれらのゲームは良い意味でギャルゲーっぽくない作品なので、『ToHeart』から続く学園モノギャルゲー的エロゲーにうんざりしてる人は思いっきり楽しめる。これはプロットとテクストが気持ちほどしっかりしていて、なおかつ爽やかだし、絵も上手いし、音楽も単品で聴けるほど出来がいい。もっと簡単に言うと全部いい。文章はしっかりしているけれど、その上でエロゲーでしかできないような表現があって、小説やアニメとのメディアの違いというものが実感できる。『forest』だけはいかんせん衒学的な臭いをプンプンさせるので少し注意が必要かもしれない。
 田中ロミオ作品では『神樹の館』と『ユメミルクスリ』を推奨作とする。『ユメミルクスリ』は過去プレイした記憶があるんだけれど、そこまで凄かった印象はないので、上記エントリーからは省いた。というか迷惑なことに『ユメミルクスリ』と言われるとむしろ吉成鋼AMVを思い出す。ぶっちゃけぼくは田中ロミオのフォロワーではないので、もし真剣に考えているなら2chのロミオスレ行って聞いた方がいいかも。『ユメミルクスリ』は今月19日に廉価版が発売されたばかりだし、『神樹の館』もダウンロード販売されているので入手が容易。個人的には『最果てのイマ』がオススメになりかねないとも思ってるんだけれども、やっていないので口出ししないでおく。『crosschannel』(関連日記)はイマイチ。『家族計画』は今も買えるのか怪しい。
 『白詰草話』は「エロゲーの表現ってこんなもんだろ」的な嘲笑を吹き飛ばす作品。LittleWitchのゲームというよりも、大槍葦人のゲームという印象が強く、つまりそれだけに後続のLittleWitch作品よりも大槍エッセンスが高密度で詰まっているので、好きな人は涎が出るほどの逸品。はっきり言ってLittleWitchの最優秀作品。FFD(Frame Float Direct の略だったと思う。違うかも)というシステムを起用した柔軟な視覚表現と意味なく繰り返し見てしまうほど美しい企業ロゴ後のスタート画面、システムメニューは業界最高レベルだと言っても過言ではない。……OPアニメがアレな出来なのは目を閉じてほしい。たとえそれが各章の冒頭毎に挟み込まれているとしても。真面目に作ってる分、最新作の『聖剣のフェアリース』の中身のないアニメーションより好きだけど。このことについて補説すると、『白詰草話』のOPは時間、予算、人員などの要素を含めれば純粋に良くなった(エヴァOPのパク……インスパイアだとしても!)かもしれないが、『フェアリース』のOPはマインドに文句があるのであり、OPアニメを作るならなんらかの、というかゲーム内容の表現をある程度しなくてはならないが単純にどんなゲームでもキャラを変えれば即時に代替品として機能しそうな画作りと不可解なエフェクトは、どうにも意識が低いんじゃないかと思わずにはいられないということだ。(ゲームをプレイして、その後観直したらすごくよくできたOPだったら完全に的外れな発言になるが。あとは単純にぼくが読み取れてないだけとか。)。

2009年3月15日日曜日

杉井光『さよならピアノソナタ』



 一巻だけならそれなりにおもしろく、文章も上手くてわかりやすい、ライトノベルの(数少ない)良心であり、新海誠がよくやってる「ぼくらは通じ合ってる」的な青春小説というか幻想小説。だが二巻は退屈な恋愛青春小説。だいたい、なんでキャラクターの造詣がこんなに気味悪いのか……別々の物語に出てくるような人物像がここに無理矢理に一纏めにされていて違和感があるからそう感じるのかもしれない。一巻だと殆ど別々に動いてた人物が集まって語り合うので、その違和感が顕著になっている。
 主人公の趣味が普通すぎるのもおもしろくない。イスラメイの中盤、比較的落ち着いたところが好きだったりするのは、ぼくも同じだけど、なにかしら、もっとこう音楽聴きまくってる設定なんだからパラノイア的なものがないと。外や他人に対してならともかく内心に対してもこんな仮面を付けたようなキャラクターで恋愛劇を進行させるのは爽快感に欠けるけど、後々の転調によるカタルシスを狙ってるのか。といっても別段ストーリィの続きやディティールが気になるわけじゃないのが弱いところ。というかもしかするとぼくは恋愛小説だとか青春小説ってのにあんまり惹かれない質なのかも。放送中の人気アニメ『とらドラ!』も大して興味を持って観てるわけじゃないし。

2009年3月14日土曜日

『CLANNAD AFTER STORY』#22の感想

 といっても先週の#21(演出:北之原孝將)で一週目は終わってたけど。綺麗に締めたなあと思う。
 Airに続いて少しトリッキィなプロットだから、それがあからさまに露呈する#22(演出:山田尚子)はアニメから入ったフォロワーからは受けがイマイチよくないみたいだけれど。映画なら『ジャケット』や『バタフライ・エフェクト』、ゲームなら『Prismaticallization』や『神樹の館』と同じで、このシリーズは循環する特種な世界の、というか人物の物語だということを捉えなければならない(key次回作の『Rewrite』なんてもう名前がそのまんまだし、最新作『リトルバスターズ!』もループモノ)。シリーズとして認識されてない節があるけれど、一応TBSのサイトには"『AIR』の夏、『Kanon』の冬、そして舞台は『CLANNAD』の春へ"という説明書きがされている。さらに作中では、ストーリィとしてはかなりどうでもよかった宮沢ルート相当#8「勇気ある闘い」(演出:石立太一)で、『Kanon』の登場人物である秋子の謎ジャムと早苗のレインボーパンのコラボ(笑)が画かれる。この後、かのジャムを塗ったパンを口にした面々が昏倒し、唯一無事に残った朋也が一騎打ちに向かうという超展開を頭の隅に追いやって鑑みてみれば、このコラボ(ryがこれらの作品は世界観を共有しているという情報を伝える良心的な小道具だったことがわかる。そしてこの世界観を把握すれば最終話の登場人物の立ち位置などを改めて思案することができて、『CLANNAD』の全貌は難しくとも、大まかな部分はなんとなく理解の上に納得できると思う。
 ところで『CLANNAD』では、対象性のある世界の重ね合わせ部分を認識できる接触者としての風子や、世界構造に迫っているのに比較的縛りが弱い(行動可能な範囲が広い)ことみは振り返ると二人ともそれなりにペナルティとして苦衷を味わった人物だった。朋也も相当の痛手を負ったことを念頭に置けば、1000回の夏を繰り返す程ではないにしろ、世界のシステムに咫尺する人物ほど――システムの部分であるほど――大きな代償を必要とする。つまりノーフリーランチが麻枝准の世界観の基礎にあるのかもしれない。

 追記。物語の大筋は個人的には興味が持てず、まあそうゆう観点ではダラ観してた、というかダラ観できたというか……例えば『とある魔術の禁書目録』や『ストライクウィッチーズ』なんて観てるときは、ぼくは必死に話の内容を気にしないようにして苦労するわけで、そうゆう徒労はせずに済んだ。今観てるもので純粋に面白いといえるシナリオのものは『鉄腕バーディー02 DECODE』くらいしかなかったり。

2009年3月13日金曜日

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(黒丸尚訳)


 松岡正剛は『ニューロマンサー』には"なにもかもの電子的未来の原点が示されていた"と語る。ギブスンがブールース・スターリングとの共著『ディファレンス・エンジン』でスチームパンクに息吹をあたえる以前の小説。『攻殻機動隊』、『マトリックス』、『赫炎のインガノック』、その他の後続作品にも大きな影響を与えたモニュメント。
世界中のコンピュータ網が織りなす情報宇宙電脳空間。かつてケイスは、そこを自在に飛翔するスーパーハッカーだった。今その能力を奪われ、ハイテクと汚濁の都千葉シティでくすぶる彼に“仕事”をもちかける謎の存在が…
 文章量が『ディファレンス・エンジン』の半分くらいだから整理しやすかったというのもあるし、プロットもそこまで複雑ではなかったのでストーリィに沈潜できた。まあ当時としてはギミック自体が超未来的だったんだろうけれど、今となっては別に珍しさも感じない点も変な振り回され方されなかった要因なのかも。イーガンみたいな論理性を重視した難解さというより、レムやクラークの観念にやや近いかと。ただしギブスンの書く人間は、もう少し醜い代わりに強さがあるように思う。だからそのしつこさと勝手さを表現するためのアクションシーンがかっこいい。登場人物が退場するときは、気持ちいいくらいスッパリ殺しているけれど、大抵最後までどいつも自分勝手に動き回っていた。はっきり言って心理描写はうち捨てて、コンピュータ・カウボーイのケイスの視点から認識できる事象のみを追っているテクストだからか、わかりにくい部分もかなりあって、そのせいで読めなくなってしまった人が多いみたいだけど、物語を丁寧になぞって、物語の陰影が見えればとても面白い。ぼくはディックの書いたものよりも俄然こっちの方がわかりやすくて好きだった。
 世界観を共有するギブスンの他の著作と織りなすスプロール・シリーズの嚆矢が『ニューロマンサー』。このあとに長編『カウント・ゼロ』と『モナリザ・オーヴァドライヴ』、短編集『クローム襲撃』が続くようなので、そちらも一休みしたら読んでみたい。『カウント・ゼロ』は絶版でプレミアが付いてしまっているので、気長に復刊を待つしかないかな。『ディファレンス・エンジン』もまた読みたくなってきた。

2009年3月9日月曜日

ラフカディオ・ハーン『怪談―不思議なことの物語と研究―』(平井呈一訳)


 特に日本では小泉八雲=パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)の代表作としてよく挙げられるものがこの『怪談』だけれど、どうにもこれ一冊ではいまいち愉しめなかった。巻末にある平井呈一の解説一五頁では短すぎるので参考資料が欲しい。例えば『神々の猿』などと併せて読めばいいのかもしれない。
 『怪談』―― "Kwaidan" は、一九〇四年、アメリカのハウトン・ミフリン書店から刊行されたもので、ハーンが日本に渡来してから著した、日本に関する第十一冊目の著作であります。
via ラフカディオ・ハーン『怪談 ―不思議なことの物語と研究―』(平井呈一訳) P191 解説
かつまた、ハーンが亡くなる直前に書かれたうち一冊で、東京大学から解任されたわずか一年後に刊行されている。いわゆる奇譚集となるが、同時代の英米の作家によって著された怪奇小説より、娯楽要素は随分削られているように思えた。平井呈一はこれを"モーティヴの真面目さ"と記し、エンタテイメントを主としたものとはまったく類を異にするものであり、さらにハーンの創作は異国人の瞳に写る、"美しさと寂しさ"を兼ね備える日本人のヒューマニズムが書かれているもので、つまり日本研究の一部門であると記している。
 前述したようにエンタメ要素が欠落しているので、殆ど資料として読んだ。というかそういう意識でしか読めなかった。とは言え何点か興味深いものもあり、一番最後に掲載されている「虫の研究 蟻」なんかはこの本に載せられている他の奇譚とは別で、思想や政治的な随想だけれど現代的な感じがして、これが一〇〇年前に書かれたものということを振り返ればなかなか趣があるのかもしれない。これは蟻の社会性から想起された随想で、その個体の利己性が完全に駆逐され、形成する共同体を合理的に運用する働き、利他的な倫理観を、人間社会に当て嵌めて考え直しているものである。
 短編はそれに含まれる趣をつかみ取ることはできなかったが、それはつまり自信の性質、あるいは嗜好が、古い時代の日本的なものよりも西洋的なものと同調するということであるかもしれない。鑑みると、日本人は西洋の人に比べて年代の差異というものが予想以上に大きいのではないだろうかとも思えた。特に辺陬の環境は人の意識が変わっても昔のままの形を保つものであるので、結果、都会の住人と非都会人の意識の差もまた大きくなる――そうか、この意識の差がFT、或いは怪奇田舎ゲームの舞台の雰囲気の基盤となるのか、などとどうしようもないエロゲ脳で自分なりの日本論だか怪談論だか、まったく論とまで言えないが、そんなことを思ったりもした。

2009年3月6日金曜日

スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏 ジーキル博士とハイド氏』(田中西二郎訳)


 とりあえず有名だから読んでみた。ミステリーというよりスリラー・SFである種の説教物語。つまらなくないけれど特筆するほどでもなく、文学史上での重要な作品なんじゃないかと。つまりはあんまり記憶に残っていない。
 ミュージカル作品(『ジキル&ハイド』)は大変おもしろいと人から聞いた。サイトを見てみるとたしかにこれは興味深く、これは今度レンタルで観てみようとも思う。というかそもそもミュージカルをあんまり観ないので、これを契機にしてそっち方面に手をつけられたらラッキーぐらいに考えていたりする。