2009年8月20日木曜日
パウロ・コエーリョ『ベロニカは死ぬことにした』(江口研一訳)
アレな内容のワリには綺麗なビジョンで好きだった。風越のキャプテンやまりんに読ませたい。翻訳は不評だけれど別にひどいと思わないし、内容も特に難しくもないと思う。ただ訳者後書きを読んで『アルケミスト』を読む気を少し削がれた。これは訳者のせいだとは言い切れないが。
愛や安寧の中で登場人物のような狂人が生まれるという。作中の言葉を借りれば"人は狂うという贅沢を、そうできる立場にいるときだけ許す"というが、勝手に言い換えることにする。人は、というか登場人物は、やはり逆境の葛藤の中で狂う。狂うというと曖昧な意味にしかならないのでもっと簡単に言えば、彼らは須く逃避という行動に出る。
逆境とは、自己の精神的状態が安寧のプラスの値からマイナスの値へ推移することによって起きるが、最初の値が既に贅沢なくらい高ければ、その精神状態の落ち込みが僅かでも、当人にとっては大きな問題となる。裕福な家庭において親と自分のやりたいことにズレが生まれた少年や、自身の贅沢な暮らしとエルサルバドルの貧困状況を比較してしまった女は、もう少し贅沢でない暮らしをしていれば精神病になどならなかったはずだ。
でも面白いのは逃避行動が"そうできる立場"において起こるだけあって、彼らにはそれが最終的に利己的利益を得られるようなものになっていることだ。ヴィレット(精神病患者用施設)は彼らを無碍に衰弱死させるようなことのない都合のいい退避地帯になっている。贅沢でいびつな社会の象徴としての施設だ。登場人物の狂いかたもいびつで、例えば有意識上では死にたいのに睡眠薬を飲むという面倒なことをして、結局のところ致死量に足りずにヴィレットに収容され、蘇生される。あの少年は両親と離縁して夢を追い続けることはしなかったし、あの女はエルサルバドルに向かうことをしなかった。それらは逃避以上に危険でエネルギーが必要な行動になってしまうからだ。かといって逃避行動をしない程には意志薄弱な人たちではないという悲劇。
知識や愛を享受できる余裕がある環境ゆえに育った自己の欲求が、理屈や教育に阻まれて、愛してくれた人に反感するほどの無思慮さはなく、まず自分を傷つける。そして自分が傷ついても、自分は未だに愛されているから、その傷を放置されることはない。そうしてようやく、優しくしてくれる人を遠回りに傷つけることができる。
狂う、狂人、ほかにも純愛なんて言葉もそうだが、そういう言葉に一概にとらわれると対象のバックボーンを説明しなくてよくなってしまう。登場人物の内面世界は書かれているのだから、読者にとっては既に狂人と呼ばれる人たちを狂人と認識することはできない。外から見て論理的に説明のつかない特殊な思考形態をしているものを、狂っていると呼ぶ。規律がより高度になっている現代において、狂人の敷居は決して高いとは言えない。そういう意味で、現代的な狂気の指すところは"狂気とはね、自分の考えを伝える力がないこと"とある女が語るものは確かにそうである。
以下、覚え書き。
インシュリン・ショック療法:統合失調症(精神分裂病)の治療法。空腹時にインシュリン高単位を皮下注射し,低血糖による昏睡(こんすい)を起こさせ,30~60分後ブドウ糖静脈注射で覚醒(かくせい)させ,十分な食事を与える。このときの低血糖化がインシュリン・ショックと呼ばれる。
ヴィトリオル:vitriol。作中では憂鬱を引き起こす特定の化学物質のことを指す。あるいは単に憂鬱の言い換え。辞書によると硫酸、硫酸塩、礬類のこと。一一〇頁も参照。
リュブリャーナ:リュブリャナ(ライバッハ)。スロヴェニアの首都。リャブリャーナにある精神病患者用病棟のヴィレットと呼ばれる施設が物語の主舞台。
憂鬱について:一一〇頁
規律について:一二八頁
映画:一三八頁の"エル・サルバドルの貧困を描いたフィルム"が不明。
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