2009年8月5日水曜日
ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(小尾芙佐訳)
これ、幼児性を示すチャーリィはmixiとかですごい楽しそうな人だし、知能が上がったチャーリィははてなでブコメを集める人だよなあ。どっちから見ても「隣の芝生は青い」。以下、雑文。
SF的なギミックの使い方はそう面白いものでもない。テッド・チャンの『理解』は知能増進という点では似ているが、その決定的な先にある非人間性を描写し、後述する二重性すら利用して精神のメタプログラムを行う。ありえないものを魅力的に見せるアイデアへの奉仕というSF小説の醍醐味のひとつは、この小説のかなめではない。どちらかといえばメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』に類似性が認めらる。オールディスが『十億年の宴』で述べたような現代SFの元祖という意味ではなく、ストーリィの構造自体がフランケンシュタイン・テーゼを担っているということである。ミルトンの『失楽園』が作中でも何度か登場することによってこのことを確信した。コミュニティから排除される人間は、孤独に何を見るか。社会を知っているからこそ人の暖かさを求めるが、その上で社会に隔絶されているからこそ自体愛的になり自己理解を深めようとする。そして大抵の場合、自己崩壊に陥る。なぜなら元来われわれの精神には生きる価値など存在しないからである。有性生殖を進化戦略的に選択し、さらに社会を構成したために一人であれば無慈悲な崩壊が待ち受けているのだ。個体的に述べるのならば、社会にあっても死は免れないが、社会構造として生きている限り、その個体は遺伝子のヴィークルという生物学的価値と社会構造の歯車という二重の価値を持ち、その中で意味を持つことが可能である。ではチャーリィが孤独であるというのは真であるだろうか。
この小説では『フランケンシュタイン』の別の読解の仕方であるドッペルゲンガーを主題としたものも表現している。二人のチャーリィはん、身体性と精神性の二つの構造体に結びつけられる。ドッペルゲンガーを主題とすることはつまり、アンビバレントな性質のコンフリクトによる苦衷に何を見るかを画くことである。最前述べたような自体愛を見いだすのもそうではあるが、それが他人への愛に<転移>するのは幼児性を担うチャーリィだ。フロイト的解釈であればナルシシズムにならず、他人へ愛を<転移>させることは幼児性からの成長であるが、ここでもまた複雑な入れ替えが起こっていることは、チャーリィという人物の二重性が、単なるジーキル=ハイド的な価値観テーブルをオーヴァーライドする二重性でなく混沌とした二重性を持っていることが読み取れる。こうした複雑な二重性を持つために、チャーリィは人の環の中にいながらも隔絶された人物として表現される。
ぼくが今回読んだものは、文庫版であるが、冒頭に「日本語版文庫への序文」として著者の言葉が載せられている。”知識の探求にくわえて、われわれは家庭でも学校でも、共感する心というものを教えるべき”とあり、著者は明らかにモラル・フェーブルとしてこの小説を書き記したと表明している。しかしフロイトは<無意識的>と<意識的>という心的装置の構造をわれわれに提示し当時の精神分析学が、そして現代の脳科学が、さらに哲学がそれを単純な問題解決方法として否定する。このことをダニエル・キイスが考慮しなかったなどとは思えない。それによりこの序文の言辞は著者によるリップサーヴィスでしかないと考えることはできないだろうか。エピグラフにおけるプラトンの『国家』よりイデアを説明する洞窟の比喩(514A~521B)が引用されていることにはモラル・フェーブルとしてこの小説を読んだ場合には違和感を残す。プラトンは哲学人による政治を最善なものだと提唱した。知性の遡行、すなわち悪意に対する知覚を損ない、角逐を避けた末にできる本当のところの友でないものに対しては厳格な態度を示していただろう。幼児性を示すチャーリィをプラトン的に救い出すことは難しいように思えるからこそ、そういった想いに帰着した。
つまりこの小説は単眼的な倫理よりも全方位的な知性へのオードであるように思う。チャーリィは地獄の熱さの中に見つけた廂間で、科学への挺身に価値を見いだしたのだ。そのことに善悪の判断を付けられるものではない。もうひとりのチャーリィが暗闇の中で幻想した人の温もりもまた、それが単一方向への愛だとしても、それをぼくは哀れまない。たとえばこれがまやかしであるのは明らかだが、この作品を評価する文章ではこの無知ゆえの友愛が「純粋」だと表現するものがあるのも確かだ。この点について一言述べるとするならば、それは純粋なのではなく、友愛意外を選択することが不可能なのである。そういったモラル的な問題を断定できる能力を私は持ち合わせていない。この作品はフィクションではあるが、決して喜劇の色が強いものではない。だからダニエル・キイスはチャーリィに明確な崩壊を与えた。崩壊があるからこそ、その合間の中でぼくは悲喜劇の中の人物について感じることができた。そうしてアルジャーノンに花束を贈った瞬間のチャーリィにぼくはようやく、どうにかして一部だけ同化できる。
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