2009年4月24日金曜日

プラトン『国家』(藤沢令夫訳)

国家〈上〉
プラトン
岩波書店 ( 1979-01 )
ISBN: 9784003360170

国家〈下〉
プラトン
岩波書店 ( 1979-01 )
ISBN: 9784003360187

 この前三七五年ごろにプラトンが書いたものの内容は要するに「善いことをしなくてはならない。また、善いこととは何かを知らなくてはならない。そして徳を積めば幸福に生きられる。」(勉強して、悪いコトはすんなよ)であり、この知らなくてはならないこと(善さ)も結局はプラトンが受けた教育に影響されたものだし、文章も面倒な会話をくどくど書き連ねているばかりで、現代的な感性を持っていると自覚しているぼくは、いくら名著だと言われていてもひどいものだと思った(でもSMAPの草彅全裸事件があったので少し納得はした)が、訳者の解説や補注は丁寧で、かなり興味深いものになってる。藤沢令夫という人物には注目すべきなのかもしれない。
 問題は詩文や美術(ミメーシス=写像)に関するプラトンの糾弾で、要するにパトスに作用するような感情的なもの(引用"感情をたかぶらせる性格" 602C~608B)はロゴス(人間の理性=善いもの)を押しのけてしまうので低劣であるという。現代風に言えば「厨二病患者を量産する作品は排除すべきである」だろうか。この点の解釈方法は二通り。これを芸術(特に大衆芸術)に対する無理解、あるいは歴史的なものによる認識の差異としてプラトンの言論に真っ向から反対の立場を取るのがひとつ。もう一つは、低劣な作品が多いことも認め、警告と捉えるか。ぼくは二つとも採用しよう。短絡的な感情をたかぶらせるものでも、そのなかにダイナミズムだとか品格を有するものもある。例え作品自体が連鎖的に熟慮することを訴えない性質のものだとしてもかまわない。もはや時代は21世紀であり、紀元前のこの不確かな哲学を無理に押し嵌めることはできないと思った方が自然だ。歴史的問題点はプラトンの時代では詩は単なる物語ではなく、人生の教科書――道徳を説くものであり百科事典でもある――でもあったということである。そういった背景があるのならば、厳格な品性を詩に求めるのは仕方のないことだ。しかしそのような読み方がなくなりはせずとも、かなり希薄になった現在では、その厳格さは作品と生活を分離できない無教養な人間の言論だとし、その上で軽薄なものを糾弾するプラトンの言論の一部に同意する。"音楽、文芸においてしかるべき正しい教育を与えられた者は、欠陥のあるもの、美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も敏感に感知して、かくてそれを正統に嫌悪しつつ"(401E~402A)、しかし創作には原則的に自由を認めるべきである、と。
 重要な箇所はもう一つ。いわゆるイデア論。イデアとミメーシスという単語だけは知っておきたいところ。596Aあたりから参照。597Aの大工が作る寝椅子の文章がわかりやすい。"彼は〈実相〉を――これをわれわれは〈まさに寝椅子であるところのもの〉と言うわけだが、その〈実相〉を――作るのではなくて、ある特定の寝椅子を作るのである"。ここでの〈実相〉がエイドスだったりイデアだったりする。そして特定の寝椅子というのが写像、つまりミメーシスとか言われているもののようだ。イデアとは神の作りだした概念であり、真実に最も近いもので、これは知性によってのみ思惟される。職人はそれを感覚によってとらえて現実に作り出す。画家は真実からより離れる。画家が見ているものは職人が感覚によって作りだした写像で、それをさらに模倣するのである。……正直なところ、まったく面倒な思想を展開してくれたもんだとも思ったりしてる。そしてイデア論の捉え方も実際的ではない。職人だって他の職人が作りだしたものを見て作るわけだから真実から第三番目にあるものではないだろうか。そしてそういった不毛な揚げ足取りをせずとも根本的に問題がある。このイデア論的思想というかプラトンの思想というのは最終第一〇巻でも語られているとおり、人間の一生を短いものであるのに比べて、魂の一生は長大(永遠)であるので、真実を求める魂を保持せよというソクラテスから続く傾向が見られる。既に随伴現象説がメジャーなものとなった現在では、これはむしろ現実から離れた、思考の中だけの論理、ある種の現実逃避に陥っているように思えるのだ。形而上学的な事柄に大してプラトニックになりすぎなのも、まあプラトンの善さなんだろうけれども。

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